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何が「待つ」を行為にするか?

聞くところによると、行動主義心理学(行動分析学、behavior analysis)では動物がおこなうあらゆる「行動」を扱うという。例えば筋肉を使って姿勢を変えたり鳴き声を挙げたり、何かを叩いたり移動すること、驚いたり笑ったり考えたりすることも「行動」である。つまり、動物の一種である人間についても肉体的な動きも精神的な動き(通常、我々が「心理」と呼んで肉体的な動きから区別するはたらき)も区別せずに「行動」として取り扱うわけである。そうすると、反対に、一体人間がなすことで何が「行動」ではないのか? そこで「行動」とはどういう定義なのか? という疑問が湧くのが自然である。もちろん厳密な定義があるのだが、行動分析学者によれば、シンプルなテストがあり、それをパスするかどうかによって行動であるかないかを識別するのだという。そのテストは死人テスト Dead-man Test と呼ばれる。そこでは、行動とは死人にできないことであると定義される。例えば、「じっとしている」「触られる」「声をださない」といった記述で表されるものは行動とは言えない。なぜならば、これらは死人にできること、むしろ死人にとって得意なことだからである。

ところで、私はこのnote記事でよく取り上げる話題のひとつに「待つ」ことがある。というのも、何かを達成するとか目標に向かって一直線に進むとか目標から逆算して今やるべきことを決めるというのはいかにも世俗的なアドバイスで、それは正しいが正し過ぎて逆張りしたくなるし、「待つ」ことに世俗的な働きを持ちにくいいろいろな行為━━例えば節制や祈祷、気高さなどを関連付けてみたいからでもある。とはいうものの、私がそこから何か価値あるものを学び取ろうとする「待つ」は行動であってもらわなければ困る。なぜならば、「待つ」とは人間的(主体的)なものであり、何か尊重に値することのはずだからである。それが死人にもできるようなことなら、人間探求の一部には成り得ないだろう。しかし確かに一見、「待つ」などというのは死人にでもできることのようにもみえる。死人にできない「待つ」とは一体どういうものだろうか?

まず、我々が「待つ」ときは何か単語を思い浮かべるものだ。なぜかというと、単語を思い浮かべることによって、すなわち記号列を経由することによって我々は何らかの対象を指示することができるからである。このような記号を使った対象指示を使ってはじめて、「待つ」に「~を」という目的格が与えられる。単語抜きに何かを待つことはできない。だから、単語を思い浮かべることなしには、ただじっとしていること、何もしないでいることと変わらない状態だろう。それは死人である。そして、単語を思い浮かべることは死人にはできない。だから、このような「待つ」は行動の一種であると言えるだろう。

次に、そうはいっても行動に対して制止をかけられて「待つ」動物はいるだろう。例えば、命じられて食事を待つことはもちろんイヌにもできるし、他の調教可能なさまざまな動物にも可能なことである。ここで他の動物とヒトとの決定的な違いについて述べることは私の手に余るが、ヒトは外部からの刺激に対して、あるいはそこから連想された単語に対して「待つ」ことによって、すなわち単語に対して反応する時間をわざと遅らせることによって、反応を選択することができる。知覚映像に対して、言語的認識をおこなうだけではなく、そこから生じたあらゆる刺激や連想に対して、「待つ」ことによって適切な選択をおこなうことができるのである。なぜならば、他のあらゆる行動と同じく、時間的余裕がなければ考えることができず、考えることができなければ他の反応の仕方を考案・想像することができないからである。したがって、ヒトは待つことによって初めて自由を手に入れるし、思考も手に入れることができる。そう考えたい。

明らかに、待っているあいだ、祈っているあいだ、相手の名前を唱えているあいだ、なにかを手に入れる前にためらうあいだ、品定めをするときに慎重に眺めるあいだ、考えが行き詰まったときに何をどう考えたらいいかわからないあいだ、私たちの頭の中では何かが起こっていて、それが我々に自由や余裕を供給する泉になっていると予想している。もちろん、ただじっとしていればいいというわけではない。我々は死人ではないからこそそこでは何かが起こっていて、そこから我々は何かを取り出すからだ。私としては「待つ」についてもう少し言葉を与えて分析を重ねてみたい。

(1,868字、2024.04.01)

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