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【つの版】ウマと人類史21・曹魏遠征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 西暦200年、曹操は袁紹を官渡の戦いで破ります。2年後に袁紹が病死すると後継者争いが起こり、曹操は彼らを手懐けつつ各個撃破して、華北を手中に収めて行きました。しかし袁紹の残党の一部は、長城を越えて騎馬遊牧民烏桓族へ身を寄せます。曹操はこれを討つため大遠征を行うのです。

◆雪の◆

◆進軍◆


袁尚遁走

 袁紹の死後、その家臣団は長男の袁譚派と三男の袁尚派に分かれ、互いに争います。袁譚は青州(山東省)を統治していましたが、袁尚が冀州(河北省南部)で後継者を称したのに反発し、冀州の鄴(河北省邯鄲市臨漳県)に戻ったのち南下して、黄河北岸の黎陽(河南省鶴壁市浚県)にとどまり曹操を防ぎます。曹操は彼らの不仲に乗じて黎陽を攻め、ここを確保した後に許都へ戻りました。あるいは曹操が対立を煽っていたのでしょうか。

 袁譚は袁尚が援軍を派遣しなかったことに腹を立て、ついに武力衝突を起こします。敗れた袁譚は平原郡(山東省徳州市)へ逃れ、曹操と和睦して娘を送り、協力して袁尚と戦いました。袁譚はこれにより冀州東部から青州に勢力を広げ、袁尚は鄴を放棄して中山へ逃げますが、曹操は袁譚を抑えるため盟約を破棄し、205年にこれを討ち取っています。

 曹操は鮮于輔・閻柔ら旧劉虞派を味方に引き入れ、彼らの指揮下にあった烏桓や鮮卑と友好関係を結んでいます。また袁紹軍で烏桓騎兵を指揮していた牽招も曹操に降り、袁譚に援軍を送ろうとしていた烏桓大人の蘇僕延を説得し、曹操につく方が得であると説きます。蘇僕延は援軍を送るのはやめたものの、すぐに曹操にはつかず、しばらく様子を見ることにしました。

 袁尚は次兄の袁煕を頼って幽州へ逃げますが、袁煕の部下たちは反乱を起こし、袁煕と袁尚は遼西の烏桓を頼って東へ逃れました。幽州・冀州の役人や住民10万戸(50万人)余りが彼らに付き従ったともいいます。袁尚は河北を奪還しようと図り、曹操はこれを討伐すべく準備を進めました。

 この頃、幷州(山西省)には高幹が割拠していました。彼は袁紹の甥で、南匈奴や韓遂・馬騰と手を組み北方から洛陽や長安を脅かしていましたが、曹操の分断作戦によって馬騰が裏切り、大敗を喫します。204年には南匈奴ともども曹操に降伏し、そのまま幷州を任されましたが、曹操が烏桓征伐を計画していると聞くと反逆し、再び南へ進軍します。曹操はこれを撃破して206年に討ち取り、また張遼らを派遣して青州・荊州方面の賊徒を鎮圧、物資輸送用の運河も掘削して、いよいよ烏桓征伐に出発します。

 諸将はみな反対し、「いま深入りして遠征すれば、劉備は劉表を説得して許都を襲わせるでしょう」と言いましたが(この頃劉備は汝南から荊州へ遷っていました)、軍師の郭嘉だけが「劉表は必ず劉備の策を採用しません」といい、遠征するよう勧めました。そして彼も当然従軍します。

烏桓遠征

 建安11年(207年)夏5月、曹操は易県(河北省保定市易県、北京の南西)に兵を進め、ここを拠点として遠征に出発します。目指すは烏桓の根拠地である柳城(遼寧省朝陽市)です。ここから3万の兵を率いて250kmほど北東の無終県(天津市薊州区)に進み、牽招を護烏桓校尉に任命、現地の有力者で劉虞の部下であった田疇を招いて道案内とします。

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 秋7月、大雨で道路が通れなくなり、烏桓も曹操の侵入を防ぐべく各地の道を抑えましたが、田疇は古い間道を教えて烏桓の裏をかく作戦に出ます。灤河の渓谷を越え盧龍塞(河北省唐山市遷西県)に至り、徐無山に登り、白檀(河北省承徳市灤平県)、平岡(遼寧省朝陽市凌源)、鮮卑の地を経て進み、山を掘り谷を埋め、500里(217km)余りに渡って道をつけての進軍でした。これは烏桓の騎兵には鈍牛にも等しく、郭嘉は「輜重隊を切り離し、騎兵を通常の倍速で行軍させ不意をつくべし」と進言します。

 秋8月、柳城の手前200里(86.8km)余りの白狼山(遼寧省朝陽市カラチン左翼モンゴル族自治県の大黒山)で敵軍に発見されます。袁尚らは曹操が長城を越えて来たと聞いて仰天しますが、蹋頓とともに兵を率いて迎撃することとします。曹操は小高い場所から敵陣を見下ろし、張遼・張郃・曹純らに精鋭騎兵(虎豹騎)を率いて奇襲をかけさせました。

 張遼は幷州出身かつ董卓や呂布の部下ですから騎兵戦はお手の物で、たちまち烏桓兵を打ち破り、蹋頓は曹純に捕縛され、斬首されます。敵兵の死者は野を埋め、捕虜は胡人と漢人を合わせて20余万人に及び、袁尚と袁煕は蘇僕延(速僕丸、速附丸とも)・楼班・烏延ら烏桓の大人とともに数千騎を率いて東方へ逃げ、遼東太守の公孫康のもとへ身を寄せました。公孫康は曹操を恐れ、彼らを全て捕えて斬首し、9月に首級を曹操のもとへ送りました。袁紹の子らはここに滅んだのです。曹操は目的を達し、帰還を開始します。

『曹瞞伝』によると、時に寒くて旱魃となり、200里(86.8km)に渡って水がなく、軍は食糧が欠乏して軍馬数千匹を殺して食糧にあて、大地を30余丈(70m)も掘って水を得ねばなりませんでした。曹操は帰還すると以前遠征を諌めた者たちを呼んで厚く賞を与え、「よく諌めてくれた」と褒めたといいます。旧暦9月ですから新暦10月にあたり、当時は小氷期なのでそんなこともあったかも知れませんが、出典が怪しいので鵜呑みには出来ません。

 冬11月、曹操は易水まで戻ります。代郡烏桓の単于代行・普富櫨、上谷烏桓の単于代行・那楼(難楼)は、配下の豪族を率いて祝賀に来ました。曹操は護烏桓校尉の閻柔に幽州・幷州の烏桓を統率させていましたが、そのうち1万余りの落(20万人)をチャイナ本土へ移住させ、烏桓の騎兵戦力(烏桓突騎)を各地への遠征に動員しました。漢代に行っていたのと同じですが、これにより三郡烏桓は天下に名騎として知れ渡ったと言います。

 公孫康は遼東太守の地位を安堵されましたが、亡命してきた袁氏の残党数千騎は送り返さず、遼東に住まわせました。また烏桓は大打撃を受けて衰えたとはいえ、右北平単于の能臣抵之らは健在で、代と上谷の烏桓も合わせて強大となり、鮮卑ともどもなおも北方の脅威でした。さらに烏桓遠征により軍師・郭嘉と将軍の張繡が病死しています。曹操は郭嘉の死を特に哀惜し、詩を詠んで悼みました(張繡は董卓の残党で、官渡の戦いの直前に曹操に降伏しましたが、かつて曹操の子を戦死させたため微妙な関係でした)。

東奔西走

 鮮卑はこの頃、檀石槐の孫で魁頭の弟にあたる歩度根が大人でしたが、かつてほどの勢力はありませんでした。次兄の扶羅韓は別に数万の民を率いて大人となっています。騫曼はどうなったかわかりませんが、名前が出てこないので死んだのかも知れません。また彼らとは別に、軻比能という者が新たに現れます。彼はもともと勢力のない部族の出身でしたが、勇敢で公平であり財物を貪らなかったため、人々に推挙されて大人となりました。

 袁紹が河北を占有した頃、軻比能の部族は長城に近かったので、中原の人は彼のもとへ多く亡命し、武具の作り方や文字、兵法を伝えました。そのため軻比能の部族は漢化が進み、漢の方式で軍隊を指揮したといいます。袁紹は彼らを支援して援軍としましたが、袁紹が敗れると曹操につき、207年には歩度根・軻比能がともに閻柔を通じて朝廷に貢物を献じています。またこの頃、曹操は南匈奴に使者を送り蔡文姫を帰国させました。

 208年、曹操は漢の丞相(総理大臣)に任命されます。7月には南征し、劉表が急死した荊州を服属させ、東の揚州に割拠する孫権(孫策の弟)らも屈服させようと長江を下ります。孫権陣営は降伏に傾いていましたが、周瑜・魯粛らは曹操を迎撃せよと説き、荊州から逃げてきた劉備を招き入れます。血気盛んな孫権は降伏論を退け、曹操軍を奇襲して大打撃を与え、撤退に追い込みます。これが世に名高い赤壁の戦いで、孫権と劉備は余勢を駆って荊州中南部を制圧し、曹操による天下統一の目論見は頓挫しました。劉備は孫権の妹を娶り、荊州南部に勢力を獲得、やがて西の益州を目指します。

 この頃、西方では馬騰と韓遂が一応曹操に服属していましたが、ほぼ独立勢力でした。208年、馬騰は曹操の使者・張既に説得されて一族郎党を率い漢に入朝しますが、子の一人・馬超は西にとどまります。211年、曹操が漢中の張魯を討つと称して西へ兵を向けると、関中(陝西・甘粛)の諸将は自分たちを討伐するつもりではと動揺し、馬超と韓遂を盟主として挙兵しました。曹操は狙い通りに彼らを討伐し、馬超と韓遂を仲違いさせて打ち破りました。ただ東方の河間郡(河北省滄州市)で田銀と蘇伯が反乱を起こしたため、曹操は深追いをやめて陝西盆地を確保させ、帰還します。この時、軻比能は閻柔に従って3000余騎を率い、田銀らを撃破しています。

 馬騰らは反乱の責任をとって212年に斬首され、馬超と韓遂はその後も反乱を続けますが敵わず、勢力を失って逃亡を続けます。馬超は張魯と手を組んだ後、214年には益州牧の劉璋を攻めていた劉備に帰順し、震え上がった劉璋はまもなく劉備に降りました。韓遂は金城郡(甘粛省蘭州市)を経て西平郡(青海省西寧市)まで逃げますが、215年に部下の裏切りに遭って殺されます。時に70余歳、184年の反乱開始から30年以上が過ぎていました。

 213年、曹操は漢の天子より魏公の爵位を賜り、215年に漢中の張魯を平定すると魏王に封じられます。魏国の首都は鄴に置かれ、曹操は天子に娘を嫁がせ外戚となる有様で、もはや曹氏による漢朝の簒奪は目前でした。王莽はオカルト理論を喧伝して漢朝をまるまる乗っ取りましたが、曹操は自ら兵を率いて東奔西走し、漢の天子を奉じて崩壊した国を建て直したのですから、彼の功績に報いるにはそうするしかないとも言えます。ただ孫権や劉備は南方に割拠し、曹操が生きているうちの天下統一は困難な状況でした。

 216年秋、南匈奴の単于・呼廚泉が配下の豪族を率いて入朝し、曹操は賓客として待遇しますが、彼を鄴に留め置いて帰国させず、右賢王の去卑を単于代行とします。また曹操は南匈奴3万余落(1落20人として60万人)を五つの部に再編し、幷州刺史に護匈奴中郎将を兼務させて管轄させました。すなわち中部の6000余落は太原郡大陵県(山西省呂梁市文水県)、左部の1万余落は西河郡茲氏県(呂梁市汾陽)、右部の6000余落は太原郡祁県(晋中市祁県)、北部の4000余落は新興郡(忻州市五台県)、南部の3000余落は司州平陽郡蒲子県(臨汾市隰県)に置かれます。全て山西省の域内ですから、黄河の西側のオルドス地方や寧夏は鮮卑が占領していたのでしょうか。

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曹魏胡乱

 劉備は孫権と荊州を巡って争っていましたが、曹操と戦うため和解し、劉備は漢中を、孫権は合肥や濡須口を連年攻撃して曹操を脅かします。曹操は両者と戦うために振り回され、各地に将軍を派遣して防ぎます。これに乗じて218年4月、代郡烏桓の能臣抵之らが反乱を起こしました。彼は鮮卑に使者を送って扶羅韓と軻比能を招き、両者は各々1万余騎を率いて会盟しましたが、軻比能はこの席上で扶羅韓を殺害し、その勢力を併合します。能臣抵之と軻比能は協力して南下し、辺境地帯を脅かしました。

 曹操は息子の一人で勇猛な曹彰を将軍とし、副官の田豫とともに討伐させます。田豫は長年の辺境勤務で敵の戦法を熟知しており、伏兵に包囲されても慌てずに円陣を作り、敵が撤退したところを追撃して大勝します。さらに代郡から200里あまりも追撃して桑乾(索干)に到達、一昼夜の強行軍で敵に追いつき、散々に打ち破りました。烏桓や鮮卑は恐れて服属しましたが、その勢力はなおも北方に残されました。

 219年、劉備はついに魏の将軍・夏侯淵を戦死させ、漢中を制圧します。曹操は怒って漢中へ攻め込みますが、敵の防御を崩せず撤退し、勝ち誇った劉備は「漢中王」と称しました。かつて漢の高祖劉邦は項羽によって辺境の漢中に封じられ漢王となったゆえ、ここは「」の源なのです。曹操は漢朝の忠臣たちの反乱に悩まされていましたから、劉備は天下に曹操が逆賊であることを喧伝し、漢中王・劉氏につくべしと宣言したわけです。

 さらに荊州を守っていた劉備の義弟・関羽が北上を始め、曹操側の荊州の拠点・襄陽・樊城を包囲します。これに呼応して各地で曹操に対する反乱が頻発し、朝廷では魏諷が名門・高官を焚き付けて謀反事件を起こし(奇しくも「魏を諷する」という名ですね)、長安に滞在していた曹操は急いで洛陽まで戻ります。また許都が南に寄っていることから洛陽への再遷都を考えるほどでしたが、司馬懿と蔣済は「孫権を動かして関羽を討たせましょう」と進言します。そこで曹操は使者を派遣し、孫権の長江以南の支配権を承認する代わりに関羽を討てと伝えます。孫権は関羽と仲が悪かったためもあり、これを承諾しました。かくて関羽は志半ばにして戦死し、劉備による曹操打倒の大計画は頓挫したのです。

 220年正月、疲れ果てた曹操は66歳で病没し、子の曹丕が魏王の位を継ぎました。同年10月、曹丕は漢の天子より禅譲を受けて魏の皇帝(文帝)となります。孫権はこれを承認して呉王に封じられ、南匈奴単于の呼廚泉も承認して璽綬を受け、鮮卑・烏桓の大人らも魏に馬を献じてそれぞれ王に封じられました。しかし劉備はこれを断じて認めず、翌年には自ら漢の皇帝を名乗りました(蜀漢)。彼は関羽を殺した孫権を許さず、残った義弟の張飛も部下に暗殺され、怒り狂って長江を下り夷陵へ攻め込みますが、陸遜らに敗れて撤退しました。そして223年、諸葛亮に後を委ねて白帝城で崩御します。

 この頃、軻比能は魏と友好関係を保ち、鮮卑に逃げ込んでいた漢人を帰還させ、烏桓とともに魏と長城付近で交易を行っています。しかし護烏桓鮮卑校尉の田豫と雁門太守の牽招は、軻比能のもとに権力が集まりすぎないよう離間の計を仕掛け、諸部族を互いに争わせています。

 軻比能は扶羅韓を殺したため、その兄の歩度根、子の泄帰泥から仇敵として恨まれていました。歩度根は軻比能に勢力を奪われて弱体化しており、魏の太原郡と雁門郡に1万余戸を率いて身を寄せ、甥の泄帰泥を招いて連合します。また東部鮮卑の大人の一人である素利も軻比能と対立し、魏や歩度根と組んで軻比能を攻撃しました。軻比能は魏と対立するようになり、北方に勢力を広げ、南の歩度根や東の素利らはますます魏に従うこととなります。

 226年、魏では文帝曹丕が崩御し、明帝曹叡が即位します。田豫と牽招はしばしば軻比能と戦いましたが、田豫は幽州刺史の王雄から讒言を受け、229年に更迭されて王雄が護烏桓校尉を兼務します。王雄は恩賞と信義とでもって鮮卑たちを懐柔し、軻比能も一旦は服従しますが、231年には蜀漢の諸葛亮の北伐に呼応して北地郡石城県(寧夏)に進出します。諸葛亮は祁山(甘粛省隴南市礼県)を包囲し、6月に兵糧不足で撤退しますが、ついに軻比能は魏の宿敵・蜀漢と手を組んだのです。牽招は軻比能への対応に奔走しますが病死し、歴戦の幷州刺史の梁習も前年に逝去しており、後任の畢軌は中央育ちのボンボンでナメられていたようです。

 233年、軻比能は歩度根や泄帰泥に誘いをかけて和親し、幷州を荒らし回らせました。将軍の蘇尚・董弼らは鮮卑に討ち取られ、魏はこれまたボンボンの秦朗を将軍として征伐に向かわせますが、大軍だったのか部下が有能だったのか、鮮卑は幸い幷州から漠北(外モンゴル)へ逃走しました。10月には歩度根配下の戴胡阿狼泥、泄帰泥らが魏に降伏し、幷州に居住することを許可されます。歩度根は敗走中に軻比能に殺されました。

 秦朗は意気揚々と凱旋し、翌年2月に諸葛亮が五丈原へ攻めてくると2万の兵を授けられ、魏の総大将司馬懿の援軍として派遣されています。しかし司馬懿は諸葛亮と戦わずに陣営を固めて対峙し、8月に諸葛亮は病没、蜀漢軍は撤退しました。また235年、幽州刺史の王雄は韓龍という勇士を送って軻比能を刺殺させ、その弟を大人としています。その名は伝わりません。

 こうして蜀漢と鮮卑が静まると、魏は北東の彼方に割拠する遼東公孫氏を討伐します。司馬懿の部下の毌丘倹は、237年頃幽州刺史・護烏桓校尉に任じられ、かつて袁尚に従って遼西へ逃亡していた右北平烏桓単于の寇婁敦と遼西烏桓都督・率衆王の護留ら5000余人を服属させました。翌年には司馬懿が大遠征を行って公孫康の子・公孫淵を討伐し、夫余・韓・倭までも服属させます。彼は曹操よりも遠くまで赴き、海の彼方まで従わせたのです。

◆雪の◆

◆進軍◆

 烏桓はこの後、歴史にあまり姿を現さなくなります。存続はしていたようですが、鮮卑の勢力のほうが強くなり、ほとんど飲み込まれてしまったのです。鮮卑も多くの部族に分かれて勢力争いを続けつつ、西晋の崩壊を迎えることになります。

【続く】

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