見出し画像

【つの版】ウマと人類史05・波斯勃興

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 紀元前609年、アッシリア帝国は滅亡しました。その版図はエジプト、リュディア、バビロニア、メディアの四大国に分割されましたが、この状態は長くは続きませんでした。メディアの属国であったペルシアが宗主国を滅ぼし、他の国々を次々と併呑して、巨大なペルシア帝国を建設したのです。

◆Prince of◆

◆Persia◆

波斯勃興

 ペルシア人(パールス族)は、メディア人やスキタイと同じくアーリヤ系(インド・イラン諸語話者)が中核であったと思われ、中央アジアからイラン高原に到来し、アッシリアやウラルトゥと交流を持ちました。語源は定かでありませんが、騎馬遊牧民ではあったようです。

 イランとは「アーリヤ人の国土」の意ですが、古くから非印欧系のエラム人が交易路を抑えて都市を形成し、エラム文明やトランス・エラム文明を築いていました。最大の都市はメソポタミア側のフーゼスターン州にあるスサで、ここからイラン高原各地へ交易網を張り巡らし、遠くインダス文明やアフガニスタン、バクトリア地方にまで経済圏を広げていました。メソポタミアは広大な農地はあっても鉱物資源がなく、金属器の原料や宝石、木材など多くの物資をザグロス山脈やイラン高原から輸入し、穀物など農産物を輸出して都市文明を維持していたのです。販路はエジプトまで及びました。

 エラムはアッシリアに対抗するため、バビロニアを盛んに支援しました。またメディアやペルシアなどイラン高原西部のアーリヤ系諸部族とも手を組み、戦力としています。ゾロアスター教(マズダー教)はイラン高原東方のアフガニスタン付近で発祥し、その聖典の初期の部分にはメディアやペルシアは出てきませんが、交易路を通じて西へも広まったようです。

『リグ・ヴェーダ』によると、前12世紀頃に北西インドのパンジャーブ地方でアーリヤ人同士の戦争が起こり、パルシュ族(Parsh)を含む10部族連合がバラタ族に敗れたとあります。これがペルシア人かは定かでありません。

 前844年頃、アッシリアの記録に初めて「パルスア」が現れます。彼らはウルミエ湖の南西部にメディア人とともに暮らしていましたが、前7世紀初め頃に南下してエラム人の地アンシャン(現ファールス州)に移住します。前691年にバビロニアがアッシリアと戦った時、エラムの援軍の中にアンシャンやパルシュマシュ(ペルシア人)がいたといいます。やがてチャシュピシュ(テイスペス)がアンシャン王となり、子孫が王位を受け継ぎました。アッシリアが崩壊すると、エラムやアンシャンはメディアに服属します。

 さてヘロドトスによれば、メディアの大王キュアクサレス2世が崩御したのち、子のアステュアゲスが王位を継承しました。彼は紀元前585年にリュディアの王女を娶り、娘マンダネを儲けましたが、彼女が15歳の時(前570年)に奇妙な夢を見ました。それは娘の陰部から溢れた尿がメディアの首都エクバタナ(現ハマダーン)に洪水を起こすというものです。びっくりした王が占い師に相談すると、「マンダネ様の御子が王位につくという兆しでございます」との返事。それなら孫が王位につくという吉兆ですが、男系ではなく女系の王がつくとなると王朝が交替してしまいます。

 困った王は「メディアの王にならねばよかろう」と思ったのか、ペルシアの王カンビュセス1世にマンダネを嫁がせます。ところが王は再び夢を見、マンダネの陰部から葡萄の木が生えてアジア全土(オリエント世界)を覆うというヴィジョンを得ました。王の自我が心配ですが、彼は「マンダネの子はペルシアの王にとどまらず、メディアもアジアも征服するということか」と勘ぐり、忠実な部下ハルパゴスを呼んで「マンダネが男子を生んだらすぐ殺せ!」と命令します。ハルパゴスは「王はお疲れなのだ」と考え、マンダネの生んだ男子を殺さず、牛飼いに預けて密かに育てさせ、王には身代わりに牛飼いの妻が死産した赤子を渡してねんごろに弔わせました。

 立派な少年に成長したマンダネの子は、ふとしたことからメディア王の目にとまり、マンダネの子であると露見します。王は殺そうとしたことも忘れて喜び、彼の祖父と同じ「キュロス」の名を与えましたが、ハルパゴスに欺かれたことには腹を立て、よせばいいのに復讐を思いつきます。彼が王子だった時にスキタイがやったように、ハルパゴスの13歳の息子を宮廷へ呼びつけると殺して料理し、父親に食わせてしまったのです。ハルパゴスはこれを知っても平然としていましたが、内心は怒り狂い、各方面へ根回しします。

 紀元前559年、キュロスは父の跡をついで王位につき、在位6年目にはメディア王国に反旗を翻します。若き英雄のもとに人々は続々と集まり、驚いたアステュアゲスは忠臣ハルパゴスに大軍を委ねて討伐に赴かせますが、彼は「ば~~~~っかじゃねえの!?」と例の顔で言い放つや全軍を率いてキュロスに寝返ります。激しい戦いは数年に渡り、前550年に王が捕虜となり、メディアはペルシアに併合されます。ハルパゴスは王を悪罵し、王は自分の所業を棚に上げてハルパゴスを罵りますが、キュロスは両者をなだめ、彼を丁重に扱ったといいます。本当かどうかは定かでありません。

 キュロスは勢いに乗じてメディアの領土を全て手に入れ、前547年にはアナトリアに遠征して翌年リュディア王国を併合、ハルパゴスを総督に任命してエーゲ海沿岸のイオニア諸国を服属させました。さらに前540年にはエラム王国を併合し、前539年には将軍ゴブリュアスを遣わしてバビロニアを占領、エジプトを除くオリエント世界全土を史上初めて統一しました。彼は征服と統治を容易にするため、神々から天命を受けた寛大な統治者であることを宣言し、祖国から強制移住させられたユダヤ人などを解放して帰国の許可を与えました。大喜びしたユダヤ人は彼をメシアと呼んで讃えています。

 その後、キュロスはイラン高原東部への遠征を行います。メディアの版図はカスピ海南岸のヒルカニアやパルティアあたりまで、アンシャンの版図はケルマーン(カルマニア)あたりまでだったらしく、アフガニスタンやパキスタンは手つかずでした。どの程度まで征服活動が成ったかは不明ですが、バクトリアやソグディアナまでも服属させ、インダス川に到達したとの伝説もあります。在位は30年に及び、息子カンビュセス2世が跡を継ぎました。天下を荒らして早死したアレクサンドロスよりは、よほど立派な大王です。

 ヘロドトスによれば、キュロスの最後の敵はカスピ海東方、現トルクメニスタンの騎馬遊牧民マッサゲタイでした。かつてスキタイを東方へ駆逐したともいう彼らは勇猛果敢で、女王トミュリスとその息子スパルガピセスに率いられ、国境の川を超えて攻め込んだペルシア軍を撃退しました。そこで元リュディア王クロイソスはキュロスに策を献じ、陣営に豪勢な料理と麻薬入りの葡萄酒を残して撤退させます。スパルガピセスらは無人の陣営を占領すると、残された料理や酒を奪って飲食し、したたかに酔っ払って眠ります。キュロスは頃合いを見計らって取って返し、スパルガピセスらを捕虜にします。まるでスサノオの大蛇退治ですが、スパルガピセスは目を覚ますと恥辱に耐えかねて自決し、トミュリスは嘆き悲しんで復讐を誓いました。続く決戦でマッサゲタイはキュロスを討ち取り、トミュリスは彼の首を切断して、葡萄酒ならぬ人間の血液で満たした革袋の中に投げ込んだといいます。本当かどうか定かではありません。

王位簒奪

 大王キュロスの跡を継いだカンビュセスは、前525年にエジプトを征服します。ヘロドトスは彼についてやたらと悪口を書いていますが、征服された側のエジプト人から聞いたことですから、悪く書かれるに決まっています。そして、カンビュセスはまもなく不審な死を遂げました。

 ヘロドトスによれば、彼がエジプトに滞在している間、本国で神官(マギ)のスメルディスが反乱を起こしました。実はカンビュセスの実弟も名をスメルディスといいましたが、兄に疑われて秘密裏に処刑されていました。同名のマギは彼によく似ていたので、「余はキュロスの子スメルディスである」と宣言し、カンビュセスを差し置いて王位についたというのです。これを知ったカンビュセスは急いで帰国しようとしますが、シリアまで戻った時に「自分の剣が太腿に刺さって」重傷を負い、死んでしまいました。かくてスメルディスはまんまと大王となりましたが、正体を知った王族のダレイオスら7人に殺され、ダレイオスが王位についたといいます。

 ダレイオス自身が記したベヒストゥン碑文によると、マギの名はガウマータといい、スメルディスはバルディヤーと記されていますが、大筋はヘロドトスと同じです。これはヘロドトスがペルシア人から聞いた話をそのまま記したせいですが、どうも不自然な話です。ダレイオスは「余の父はヒュスタスペス(ウィシュタースパ)、祖父はアルサメス、曽祖父はアリアラムネス、高祖父はテイスペス、その父はアカイメネス(アケメネス、ハカーマニシュ)」と碑文に系譜を記していますが、大王キュロスが残した記録にテイスペスの父の名は記されていません。そのためダレイオスの系譜は怪しく、彼が倒した「偽の」スメルディス(バルディヤー)は本物だった可能性があります。つまり彼が王位を簒奪した後で、プロパガンダを流して即位を正統化・正当化し、前任者をバカ殿や贋物だと貶めたというわけです。

 従って、ダレイオスより前のペルシア王国を「アケメネス朝」と呼ぶのは、ダレイオスのデマを鵜呑みにした表現です。正確には「テイスペス朝」とでも呼ぶべきでしょう。ダレイオスは即位後も熱心に碑文を刻み、キュロスを「アケメネス家のキュロス」と後付で呼び、キュロスの娘アトッサらを娶って正統性をアピールするのに余念がありませんでした。まあ歴史上ではよくあることで、大王様に逆らえば殺されますから、各地の反乱が叩き潰されるとペルシアの人民はダレイオスに従いました。

 彼は地中海からインダス川に至る広大な帝国を20あまりの属州(サトラペイア)に分け、総督(サトラップ)を置いて統治させ、税金を集めて国庫へ納めさせました。その収入は莫大で、これを用いてダレイオスは首都ペルセポリスなどを建設し、交通網やスパイ網を整え、上質な金貨や銀貨を発行して経済活動を活発化させました。人民は富み栄え、ダレイオスが王位簒奪者だなどとはおくびにも出さなくなったことでしょう。オリエントの主要な文明圏のほとんどはペルシア帝国の支配下に入り、西は北アフリカのカルタゴやギリシア、北はスキタイやマッサゲタイがあるばかりです。

 ベヒストゥン碑文には、サカ(Saka)と呼ばれる人々が記され、その姿が浮き彫りで描かれています。サカには三種類あり、ひとつはハウマヴァルガー(hauma-varga、ハオマ酒を飲む者)、2つ目はティグラハウダー(tigra-xauda、尖った帽子をかぶる者)、3つ目はティヤーイー・パラドラヤ(tyaiy -paradraya、海の彼方の者)と呼ばれています。3つ目がカスピ海や黒海の彼方のスキタイとすれば、ティグラハウダーやハウマヴァルガーはカスピ海の東側やソグディアナのサカ(スクダ)でしょう。他に「スグダの地の彼方のサカ」も記されており、シル川の北にもサカ(スクダ)がいたようです。彼らはチャイナの文献でも「塞(sek)」と記されています。

 紀元前513年、ダレイオスは大軍を率いて遠征に出発し、ボスポラス海峡を押し渡り、ヨーロッパ側のトラキアへ上陸します。そしてバルカン半島の黒海沿岸を北上し、スキタイを討伐すべく進撃しました。この侵略戦争に対し、スキタイはどう立ち向かったのでしょうか。

◆G◆

◆K◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。