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喫茶ホルン【ショートショート・超短編小説】

 運命の出会いは高校1年生の夏休みの部活帰りだった。
 バレーボール部で球拾いに励んでいた当時の私は、平等に練習させてもらえない不満を内に秘め、商店街を歩きながら帰路に就く毎日だった。
「スポーツ推薦だったのに何で練習させてもらえないんだろう」
 心の中で愚痴を呟く。今思えば、1年生でいきなり練習に参加できるなんて、よほど才能のある子でなければ無理だとわかる。中学生の頃だってそうだったのだから。それが理不尽であることには変わりないと未だに思うけれども。
 いっそ辞めてしまおうかな。
 いや、ここで挫けてはだめだ。
 夏休みも終わりを迎える直前の8月19日、部活の仲間とバイバイをして一人になったとき、私の中で部活を辞めるか続けるかの葛藤が膨れ上がり抑えられなくなってしまった。どうしようと逡巡した結果、気晴らしに商店街をいつもの帰り道とは違う方向に寄り道することにした。
 見慣れない道を歩くのは異世界に飛び込んだかのように私を浮遊させた。ここに文房具屋さんがあるんだ、あそこに大衆食堂があるんだ。新しい発見が消しゴムのように心のもやもやを消しさっていった。
そのとき、運命の出会いは突然やってきた。
 商店街の北側のはずれでひっそりと純喫茶が佇んでいるのを発見した。赤茶色のレンガ造りの外観に大きな窓が付いており、「喫茶ホルン」と白色で大きく半円状に店名が書かれていた。楽器のホルンが由来だろうか。入口脇にはショーケースがおいてあり、食品サンプルと値段表が整然と並んでいた。
 これは気になる。高校生のお財布に対してやや厳しい値段設定だったが、好奇心が勝った。
 入りづらさからやってくる少しの躊躇の後、私は重厚感のある扉を開いた。カランコロン、カランコロン。私の存在を知らせる鈴の音が思ったより大きく店内に響き渡る。するとすぐに店員のお姉さんが出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか」
「あの……一人です」
 私は緊張しながら答えた。なにせ、家族も友達も同伴ではなく、たった一人で喫茶店に入るなんて初めてのことだったのだから。あのときは背伸びしたなあ、と懐かしく思う。
 お姉さんに案内されて席に着いた。あまりお客さんがいなかったのもあってか、4人席を広々と使わせてもらった。赤い座席のふわふわした手触りと、ふかふかした座り心地は今でも覚えている。
 着席と同時にお姉さんは水を置き、メニュー表を渡してくれた。
「お決まりの頃にお伺いします」
 そう言うと、優しく見守るかのような笑みを浮かべながら、店の奥に戻っていった。その笑顔に安心すると同時に、子供扱いされたかのように感じたのを覚えている。この年齢になれば、微笑ましく思っていたことはわかる。しかし、当時の私は何だか恥ずかしいやら、不服に思うやら、複雑な感情を抱いていた。
 薄暗い店内でメニューを眺めていたとき、タバコの臭いをかき消すかのように食欲をそそる香りが漂って来るのを察知した。間違いない、これはカレーだ。カレーの存在が明らかになった瞬間、騒ぎ出すお腹の虫。食べ盛りが部活帰りに空腹でないわけない。よし、カレーにしよう。あとは……飲み物はどうしようか。
 じっくり悩んでいたのでお姉さんの存在に気が付かなかった。「お決まりになりましたか? 」といきなり尋ねられたので変な声が出てしまい、照れでごまかした。いきなりと思ったのは私だけだけれど。
 えーっと、とごまかしながら急いで飲み物を急いで決めた。
「カレーライスとレモンスカッシュをお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 レモンスカッシュを選んだのは特別好きだからではなく、申し訳ないことに消去法だ。コーヒーや紅茶が苦手だなんてまだまだ自分は子供だな、とため息を吐いた。
 お姉さんは再び奥に戻り、注文を厨房に伝える。それにしても、たかが注文しただけなのに、まるで大仕事を終えたかのようにどっと疲れてしまっていた。初めてのことだし、無理もない。
「お待たせしました、レモンスカッシュです」
 ようやく落ち着きを取り戻した頃に、レモンスカッシュがやってきた。全体的に丸みがあり、縁近くがくびれたグラスがとても可愛いらしい。白いストローで一口飲むと疲れや緊張をほぐすようにシュワシュワっと口の中で弾けた。炭酸飲料は頻繁に飲むが、喫茶店という場所では魔法がかかっているかのように格別だった。
 あとはカレーライスを待つのみだ。そんなことを考えていると、すぐさまカレーの香りが近づいてきた。
「おまたせしました、カレーライスです」
 白い丸いお皿に盛られたカレーライスがコトッと目の前に置かれた。
 カレーライスのお出ましにより、私の視覚と嗅覚はフル稼働。お腹が限界到達。口はまだか、まだかと大合唱。
 スプーンでルーとライスをすくい上げ、口へと運んだ。その瞬間、口内に広がるスパイスの刺激。鼻を通り抜ける香り。心に広がる幸福。脳内で分泌される快楽物質。カレーライスってこんなに美味しかったっけ?夢中でカレーライスを次へ次へと口に運ぶ。
 お腹が空いていたこともあり、ものの5分でカレーライスを食べ終えてしまった。若干の物足りなさを感じつつも、レモンスカッシュを一気に飲み干したところで満足感がやってきた。そうか、喫茶店ではカレーライスにレモンスカッシュをセットにすることでお腹が満足するのか。どうやらこのときに変な正解を覚えてしまったようだ。
 早く食べ終わったのが恥ずかしく、そそくさと席を立った。お会計を済ませ、カランコロン、カランコロン、と扉を押し、店を出た。すっかり空は赤くなり、葛藤も忘れていた。よし、明日も頑張ろう。球拾いだけど。そう意気込んで歩き始めた。

◇◇◇

「本当にその組み合わせが好きだよね」
 そう言いながらシンイチは私のレモンスカッシュとカレーライスを指さす。
「これがベストなのよ、これが。一番満たされるの」
 私はスプーン上に作った小さなカレーライスを口に運ぶ。スパイスの刺激や香りを身体が受け取り、幸福感、快楽が全身にほとばしる。あの頃ほどのインパクトはないけれども、「喫茶ホルン」のカレーライスは思い出というスパイスが効いていてとても美味しい。
 今日は有給休暇を使って、恋人であり、「喫茶ホルン」初心者であるシンイチと共に「喫茶ホルン」にやってきた。8月19日の今日、閉店するからだ。それはまるで私の青春がひとつ消えるかのようにさみしく、同時に私が成長するための試練のようでもある。一人で行かず、「喫茶ホルン」に思い出も何もないシンイチを連れてきたのは、今生の別れを受け入れる勇気がなかったからに他ならない。無理して有給休暇を取らせてしまったので、次回埋め合わせしなければならないのが少々面倒くさい。
「そろそろ出ようか」
「え、もういいの? 」
 カレーライスを食べ終わってすぐに店を出ようとした私に、シンイチは思い出に浸らなくていいのかと拍子抜けた表情を浮かべる。「喫茶ホルン」では食べたらすぐに帰る、というのが女子高生時代から変わらぬ私のスタイルだ。
 当時の「喫茶ホルン」とは違うお姉さん、いや、女の子がレジ打ちをしてくれる。ありがとう、とお礼を言い、重厚感のある扉を押す。カランコロン、カランコロン、と鈴の音が響く。
 店を出た後、突然押し寄せる思い出の波に飲み込まれながら私はそっと涙を流した。

ブログとはまた違ったテイストです。