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ルカ伝第24章13〜35節「その姿が見えなくても」

 4月7日の尾久キリスト教会における広瀬邦彦先生の説教。題材はルカ伝第24章13〜35節「その姿が見えなくても」。
 4月になって新年度が始まった。自分たち家族も任期一年を過ぎた。今日の箇所は、イエスが復活した日の夕方のできごと。エルサレムでのイエスの処刑にショックを受けた二人の弟子がエマオに向かって歩いていた。イエスが一緒に歩いていたのに、まったく気がつかず、目が遮られていた。おそらくその時のイエスは、いつもの姿とは違っていたものであったようだ。復活の身体は常に非ず、自分たちに置き換えてみても興味深い。今日読んだ箇所で23節までのイエスは、一緒に歩いた弟子たちの話しをジックリと聴く、良きカウンセラーだった。24節以降のイエスは、偉大な教師であった。そこに愛を感じたからこそ、 弟子たちの心の内側が燃えたのであろう。
 われわれはイエスがそばにいることに、得てして気がついていない。この場面でイエスが弟子たちにパンを渡した腕に、十字架の傷跡を弟子たちが見たのではないかという説教者もいた。そして(イエスであることに)気がついた時、その姿は見えなくなった。つまり見えるか、見えないかは、信仰にとって特に大事ではない。イエスとわれわれはいつも一緒におり、イエスを見る(終末の)日まで、見えなくても同じなのである。そのかわりに、聖書、精霊、教会が主を仰ぐ共同体としてある。10年以上会ってはいないが、思い出すと親しい気持ちになる友人がいる。「ペテロの第一の手紙」第1章8〜9節には、キリストを見たこともないのに愛して信じるということは、魂の救いを得ていることを表している。
 カトリック司祭のヘンリ・ナウエンは、著書「燃える心に」で黙想について語っている。「イエスがパンを取り、祝福し、割いて弟子たちに与えられた時、イエスはご自身の生涯をこれらの行為に要約されました」と、一人一人のキリスト者を「聖餐のパン」になぞらえた。それは弟子がイエスと一体化していることを指す。パンを身体、ワインを血になぞらえる。聖餐式で語られることの多い箇所である。

ヘンリ・ナウエン師

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