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「オピニオンですね!」という声が虚しく響く

数ヶ月前か何ヶ月前か忘れたが、初対面の人と話していたときに、「で、ヤギさんは何がしたいんですか?」と聞かれたことがある。
当時ぼくは文章をよく書いている時期だったので「本を書いてみたいですね」と答えた。するとすぐに「どんな本ですか?」という質問が返ってきた。どんな本か…??即答できず、その当時よく書いていた文章を思い出しながら少し考えて、「自分の意見みたいなことですかね…」と答えると、その人は「あぁ、オピニオンですね!」と言って、納得したようだった。

オピニオン!

この言葉に衝撃を受けたぼくは、その日からずっとオピニオンという言葉を忘れられずにいる。自分の書きたかった文章とは、オピニオンだったのか?本当にそれで当てはまっているのだろうか。

「オピニオン」というとなにかこう、「高齢化やAI時代に備えてベーシックインカムを導入を検討すべきだ」とか「保育士の給料を引き上げるべきだ」みたいに、政治問題や社会問題に対する提言や反応のように感じる。ワイドショーでキャスターの横に鎮座している著名人が、ニュースのあとなにか言うアレとか、Twitterでニュース記事などを引用リツイートしながら、ほにゃほにゃ言うアレとかを思い浮かべる。
もしそれがオピニオンだとすれば、ぼくが書きたいのはオピニオンではないかもしれない。

ほにゃほにゃ

自分が何を書きたいかという問題は、自分は何を読みたいのかという問題と隣り合わせである。そして、どんなものを読みたいかは、どう生きたいかと隣り合わせにある。もしこの問題を考えずにいられると人がいるとすれば、それはその人が何か決定的な答えを無意識のうちに持っているからだろう。何も考えずに何かを読み、書いている。それは悪いことではない。

どう生きたいかどうありたいかどんなものを読みたいかどんなものを書きたいか…に対する決定的な答えを持っているのであれば、それを改めてじっくり考えなおすことよりも、それを実行することに時間を割いたほうが有意義である。

逆に考えると、どう生きたいかが決まっているから何を読むか読まないかを決断できる。「その情報なり知恵なりは自分の人生にとって必要か?」の判断は、どう生きたいかによって決まる。楽しく生きたい人にはエンタテインメントは必須だが、楽しくなくて良いのだという人にエンタテインメントは不要。そしてその情報なり知恵なりを咀嚼した先に、何を書きたいかが発生する(しないか?)。

「バスケがしたいです…」とみんなが言ってた時代

ぼくが中学生だったころ、『スラムダンク』というバスケットボールを題材にした漫画があった。当時ぼくの周りではそのマンガの影響でバスケ人気が高まっていて、中学校のグラウンドにあるバスケットボールコートで良く、バスケ部ではない友人同士と、日が暮れるまでバスケをしていた。それで高校生になってからぼくはバスケ部に入ってしまうのだが、大人になってから、当時ぼくと同じように、『スラムダンク』を読んでバスケ部に入る輩が大量に発生していたことを知った。バスケ部に入ろうと思ったのは、ぼくとぼくの近くにいる友人だけではなかったのだ!気づくのが遅いといえばそれまでだが、渦中にいると気づけないことは多い。

つまりぼくは、あるひとつの人気漫画に影響されて、「バスケをやりたい」と感化され、自分の欲望を決定づけていたのである。

どう生きたいか…

どう生きたいかどうありたいか何をしたいか?の問題を考えるとき、ぼくは「ぼくにとってのスラムダンク」のことを思い出してしまう。ぼくはとても影響を受けやすく、記憶の保持に難があり、人に流される気質を持っている。誰かがAが良いといえばぼくも「Aいいな」と思い、誰かが「B最高」といえばぼくも「B最高」と思う。そしてしばらく経つと、AもBも忘れている。

感化されやすい自分に気づくと、自分の人生の(若干の)虚しさを感じる。
ぼくはイラストレーターで、ついついさびしげな人物を描いてしまうのだが、それは自分が人生に(若干の)虚しさを感じているからでもある(もちろん仕事ではその虚しさと無関係に描いてます)。

人間はひとりでは生きられず、人に影響を与えたり与えられながら生きている。しかし「自分の好きなように生きろ」という言葉を聞いて育ってきた世代のぼくとしては、「いや、その好きという感情でさえ、自分以外の何かに影響を受けているのだ」と思い、「自分の好きなように生きる」は「自分以外の何かに影響を受けて生きる」と同義だと感じるのだ。そこに人生の(若干の)虚しさがある。

自分の卑近な話と、過去の壮大な話を絡める

ここまで自分の卑近な話を書いてきたが、ここでちょっと歴史の話を絡める。

「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という言葉がある。ドイツのアドルノという哲学者の言葉で、片山杜秀さんの『歴史という教養』(河出新書)で紹介されていたものだ。
アウシュビッツはユダヤ人収容施設があった土地として有名で、「アウシュビッツ以降」とはユダヤ人の大量虐殺以降という意味。で、ここで言う「詩を書く行為」とは、人生の喜びや人間の素晴らしさをうたったりするような言葉のこと(たぶん)。つまり、「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」は、自分たちがあんなにひどいことをした人々(ナチスドイツ)と同じ人間という存在であることを知り、かつ、多くの人が犠牲になったことを知ってしまったあとは、人生の喜びを心の底から謳歌することはできない、という意味になる(たぶん。詳細は各自調べてください)。

日本では若さを褒めそやす傾向がある。「若いときは楽しかった」という人が多くいる。そしてそのカウンターとして「大人になったほうが楽しい」という意見もある。
しかし大人になる過程で、我々は何度も大なり小なりの悲劇に出くわす。人を傷つけ、傷つけられ、人の死を見たり、苦しみに出会す。大人として生きるということは、その悲劇を記憶の中に保持したまま、次の人生を歩んでいくということだ。そのとき、「楽しい〜フォー!」と叫ぶのは、ぼくにはどうしても憚られるのである。

それが若干の虚しさをキープしながら三等身の人物を描いているぼくのスタンスと通ずるものがある。三等身なのは、端的にぼくの未熟さの表れでもあるし、そもそもぼくの絵とアウシュビッツと比較するのはあまりにもバランスがおかしいのだが…

???

そんなわけで、ぼくは「本を書きたい」という願望を一旦脇に置いて、どう生きたいかどうありたいか、それはなんの影響で、自分は誰かに影響を与えているのかいないのか、などを考えたり考えなかったりしている。社会や政治はこうあるべきだというオピニオンを書くつもりはない。それをいつか自分で読んで、まあまあ面白いかなと思えれば、それで良いのかもしれない。まだわからない。


(補足)

そういえば、自分で文章を書くと「オピニオンチック」になってしまうので、それを回避すべくマンガを描き始めました↓

↓4ページの無料漫画です。


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