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【掌編小説】Yesterday Once More


 中学二年生のとき、ひと夏だけ、ピアノを習ったことがある。好きな女の子がいたからだ。

 その子はいつも涼しげで、物静かな子だった。ピアノが上手で、音楽の授業の前によく友達とピアノを弾いていた。僕は休み時間、早めに音楽室に行き、何にも興味がないふりをして机に突っ伏して、そのピアノに耳を傾けるのがすごく好きだった。

 何か話すきっかけがほしかったのだろう。両親に適当な理由をつけて、近所のピアノ教室に通わせてもらった。当時、僕は野球部で、丸坊主だった。指は短くごつごつしていて、どう見てもピアノなんか弾くようには見えなかった。泥だらけのユニフォームのまま、夜から自転車でレッスンに行った。先生は陽気で優しい四十歳くらいの女性だった。ユニフォームで玄関を開けると、笑いながら、服についた土をはたいてから中に入るように言われた。

 最初はバイエルなど基礎練習ばかりをやっていたが、そのうちカーペンターズの「Yesterday Once More」を練習曲に選んで弾いた。僕は熱心な生徒ではなかったから、僕のイエスタデイワンスモアはなかなか先に進まない。一番と二番を行ったり来たりして、何度も同じところでつまずき、音を外した。

 練習自体はあまり楽しくなかったけど、その子のことを想うと胸が高鳴った。僕は飽きずにコツコツと練習した。

 9月。夏休み明けの音楽の授業の前、音楽室に早めに行き、何食わぬ顔で曲の一節を弾いた。緊張して手が震えて、自分が思うより心細い音がした。それでも、その子がはっと驚いた顔をして、そのあと、一瞬微笑みかけてくれた瞬間を覚えている。全てが報われる笑顔だった。

 結局、それ以降も僕はその子に話しかける勇気はなく、そのまま中学を卒業した。野球部の練習も秋季大会に向けて忙しくなり、僕はピアノ教室も辞めてしまった。通っている目的が自分でもよく分からなくなったからだ。

 卒業式の前日。だれもいない放課後の音楽室。はじめから終わりまで、一曲通しでイエスタデイワンスモアを弾いた。不思議なもので、誰も見ていないと、すらすらと弾けるんだな、と思った。西日が差し込む教室に、柔らかな音色が響いた。

When I was young
I’d listen to the radio
Waitin’ for my favorite songs
When they played I’d sing along
It made me smile

 大人になっても、たった一曲だけピアノが弾ける僕が残った。ただ、それだけ。

(了)



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