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雑記帖

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日々思い浮かぶよしなしごとを書いた雑文をまとめる雑記帖です。
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記事一覧

黒板を使うとなにがうれしいのか

黒板を使うとなにがうれしいのか

大学などで講義をするとき、黒板がある教室だとうれしくなる。
チョークを使って黒板に文字や図を書くのがなんだか好きなのだった。
たぶん、いくつかの理由が絡み合っている。

ひとつは、話すペースに合っていることがある。場合によっては、PowerPointなどのスライドを使って話すこともある。「これだけは伝えなければならない」ということがかっちり決まっているような場合は、とても便利だ。あらかじめスライド

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【連載】異界をつなぐエピグラフ 第9回|コウセイ畏るべし|山本貴光

【連載】異界をつなぐエピグラフ 第9回|コウセイ畏るべし|山本貴光

第9回|コウセイ畏るべし1.校正のおかげです

 この連載では、いささか古めの本を多く扱ってきた。意図してそうなったというよりは、気づいたらそうなっていた。といっても、現代の本にエピグラフがないわけではない。むしろ、日々手にしている本のあちこちでお目にかかる。

 最近読んだ本で、こんなエピグラフに出会った。

 これは校正者の牟田都子さんの『文にあたる』(亜紀書房、2022)という本に現れる引用

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仕事場のようになる

仕事場のようになる

このnoteでは、どうでもよろしいようなことを気軽に書こうと思って始めたのだった。
どうでもよろしいようなことは日々思い浮かぶので、それを書いてもよいわけだけれど、なかなかそうもいかない。
というのは、もともと「どうでもよろしいようなこと」であるだけに、いざ書き始めても、途中で「でも、わざわざ書き付けるまでもないかしらね」と思って投稿するに至らないからなのだった。
それともう一つ、noteで出版社

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文芸書を並べるのは難しい

文芸書を並べるのは難しい

このところ、小説や詩集を、どんなふうに書棚に並べるかについて考えている。
大きな基本方針は決まっている。

・文庫や叢書類はまとめて置く。

例えば、岩波文庫、講談社文芸文庫、新潮文庫、光文社古典新訳文庫、ルリユール叢書、白水社エクス・リブリス、新潮クレスト・ブックスといった本は、叢書ごとにまとめて置くという意味だ。
なぜそうするかといえば、単にシリーズものは並んでいると気分がいいということもある

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【連載】異界をつなぐエピグラフ 第2回|モンタージュ式エピグラフ、あるいはザナドゥへの道|山本貴光

【連載】異界をつなぐエピグラフ 第2回|モンタージュ式エピグラフ、あるいはザナドゥへの道|山本貴光

第2回 モンタージュ式エピグラフ、あるいはザナドゥへの道まさに奇蹟ともいうべき創意工夫の極地であった。
S・T・コウルリッジ(★1)

1.エピグラフは扉そのもの

 前回、「エピグラフは異界をつなぐ扉のようなものだ」と書いた。

 これはものの喩えというもので、実際にはエピグラフは扉ではない。てなことは言うまでもなく、お分かりいただけると思う。

 などと述べておいて恐縮だが、こう書いている私の

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でもそれは、遠い遠い思い出

中学生のとき、ときどき遊びにいっていたA君の家ではサルとイヌを一緒に飼っていた。
訪れるたび、「今日はケンカしてたりしないかな……」と少しドキドキしていたものの、サルとイヌは特に険悪な風でもなく互いにのんびりしていたように思う。
放課後なんかに遊びに行くと、A君はヴィデオテープに録画されたRCサクセションのライヴ映像を再生してくれて、2人で繰り返し見て飽きるということがなかった。あの声で「愛しあっ

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失ったものとの再会

これまで失ってきたものと再会する夢を見た。

うつらうつら、何度か目覚めたり、また眠りに落ちたりを繰り返して、そのつどオムニバス映画のように切り替わる。

それぞれの対象はとても鮮明で、かたとき再会しては、なにかの理由でまたはぐれてゆく。

目覚めたとき、「ああ、いろいろなものを失ってきたんだな」と思ったものの、実際のところ、自分が夢でなにと再会したのかは思い出せなかった。

あまり自発的に話さないわけ

子供のころから、よく口内炎ができた。

といっても、子供のころはただただ口の中が痛いというだけで、それがなんなのかも分かっておらず閉口するばかり。

あるとき、親類の結婚式に呼ばれたかなにかでご馳走の出る席があった。当時小学校に上がる前かそこいらの私は、その日やはり口内炎ができていて、母親に口の中が痛いのでものが食べられないと伝えたところ、バナナやらプリンやら柔らかいものばかり与えられたということ

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呼び込みに弱い

先日チョコレートをいただいたお礼に、お菓子を買おうと街に出る。

たまさか通りかかったお店を見て、ちょっといい感じの外観だな、覗いてみようかな、と思ったところで、店員さんが出てきて、大きな声で呼び込みを始めた。

私は気後れをして、そのまま素通りする。

なぜかは分からないのだけれど、種類を問わず、呼び込みをしているお店を入りづらく感じて敬遠してしまうのだった。

少し先に行ったところで、おいしそ

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イヤな記憶から離れる

ぼっとしていると、昔のことが思い出されたりする。

そのまま記憶が甦るままにしておくと(そう、どちらかというと、体が勝手に再生しているような感じなのだ)、ときどき「ああ、そっちはあかんよ」と感じることがある。

なにがどうあかんのかは、その時点では分からないのだが、そのまま記憶を遊ばせておくと、かつて味わったイヤな気分(恥ずかしい思いとか苦い思いとか)が甦りそう、という予感のようなものだけが感じら

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砂浜の白い線

砂浜の白い線

散歩の途中、気が向くと浜辺を歩く。

水の色も、浜の様子も、訪れるたび違っているように見える。この日は、なんというのだろう、水が澄んで浅瀬の底が見えている。少し緑がかった水面は穏やかで、春の気配を感じさせる。

しゃらしゃらという小さな音が聞こえる。浜辺の細かい貝殻が、波に動かされて鳴る音だ。

砂浜の様子も行くたび違っている。あるときは、砂ばかりかと思えば、貝殻の破片が層を成していることもある。

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岩波文庫に(勝手に)帯をつけるプロジェクト#03

岩波文庫に(勝手に)帯をつけるプロジェクト#03

さて、なかなか帯をつくり始めるところまで辿り着かないのだけれど、もう一つだけ先に記しておきたいことがある。

なぜ岩波文庫に(勝手に)帯をつけるのか。理由が二つあると言った。

一つは、前回書いたように、岩波文庫の著者別番号のしくみが紆余曲折しているために、古い本だと番号が現在のものと違っていて、棚に並べる際などに不便だから、ということだった。

では、もう一つはなにか。写真を見ていただこう。

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岩波文庫に(勝手に)帯をつけるプロジェクト#02

岩波文庫に(勝手に)帯をつけるプロジェクト#02

なぜ、岩波文庫に(勝手に)帯をつけたいのか。まだ、その話に辿り着いていなかった。

理由は二つある。

一つは、岩波文庫の変遷に関わり、もう一つは、私の個人的な必要に関わる。まず、前者から述べてみよう。

前回説明したように、現在の岩波文庫には、帯の色による分類に加えて、著者を識別するための番号と、作品を区別する番号が備わっている。

改めて例を示せば、『与謝野晶子歌集』(改版第1刷、1943;第

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岩波文庫に(勝手に)帯をつけるプロジェクト#01

岩波文庫に(勝手に)帯をつけるプロジェクト#01

私はここ四半世紀くらい、岩波文庫を集めて読んでいる。
(なんでそんなことをしているのかについては、近日公開される別の文章に書いたので、ここでは省略する)

それで早速なのだが、岩波文庫について少し困っていることがある。

書棚に本をどう並べるか、ということに関わっている。

これは、岩波文庫を収めた棚の一部。棚が足りないので、手前と奥の二列で並べている。

といっても、いま考えたいのはそのことでは

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