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町に豆腐屋があるという贅沢。

畠の肉とも呼ばれる程栄養価も高く消化もよい、みそ汁に、すき焼きに日本人の食卓に欠かすことのできない豆腐、この豆腐を製造し続けて四十余年。

雨の日も風の日も豆腐に明け暮れ、私の生きる道と定め、ひたすら豆腐造りに精出している「豆腐屋のおばさん」 こと黒岩挙(あぐる)さんを今回は紹介してみたい。

豆腐との出会い

挙さんと孫の敬典さん



 挙さんは明治四十年(1907年)一月、窪川町東又で七人兄弟の五女として生まれた。
 娘の頃は洋裁学校で手に付けた技術を生かして高知市内の洋裁店に勤めていた。 とある日、父がわざわざ尋ねてきて「大野見で電気料の集金の仕事があるので、是非やるように帰って来ないか」と強くすすめた。 突然の話しで少しはためらったが、親思いの彼女は父 親の言うままにそれに応じた。
 そして喜田の大野さん宅へ下宿することになったのである。

現大野見地区の地図


「今考えてみれば、電気料の集金に大野見へ来たために豆腐をひくようになったわネ、初めての土地に来て大野さんや田辺さんに随分お世話になりました。
 
 電気料の集金と豆腐!ピンとこない取り合わせであるがこれには理由がある。それは、下宿のすぐ隣りに豆腐屋さんがあった、その店の息子に黒岩源吉さんが先妻と離別して独身生活をしていたのである。隣り合わせに住んでいて朝晩顔を合わせているうちに二人の間に愛が芽生へ、その仲はだんだん濃くなり、源吉さんの後添えとして結ばれたのである。時は昭和九年(1934年)の秋、彼女は28才であった。

 嫁ぎ先の家は、母が豆腐屋をしていて主人はリアカーで木材を運搬していた。彼女は自転車で村内をかけめぐり電気料の集金をするかたわら家業の豆腐造りを見習ったのである
 「お母さんはやさしい人で、私が慣れない手付きで豆をひいて居たら、度々手を添えてくれて二人でひいたことでした。」
 遠い昔をなつかしげに語るのであるが、そもそも此の時が豆腐との出合いであり、彼女の生きる道となったのである。

不運な思い出

 やがて二男一女の子宝に恵まれ家族で楽しい日々を送っていたのであるが、ある夏の夕暮れ不吉な出来ごとが起った、それは島の川でリアカーを引く牛が谷底に落ち死んだのである。幸い人には怪我がなかったが牛をなくした損失はかくし切れないショックであった。しかしそれ位のことで屈することなく、その後、リアカーより多く荷を積むことができる荷車 に変え主人の働く意欲は旺盛であった。


 荷車馬は借りてきて飼っていたのであるが、飼料に豆腐のからや大豆汁を与えるので馬はよく肥り世間の目を引くような良馬であった。当時の荷車引きはかなりの高賃だった筈だが主人は比較的高令だったので人並の賃にならず家計それ程楽ではなかった。
 それにもかかわらず税務署は容赦なく荷車引き並の所得を見積り税金を取り立てるのであった。

 ある年どうしても税金を完納できなくて不足分を差し押さえられたこともあった。 その時は「荷車を差し押さえて下さい」と頼んだが物が太すぎるということで、集金用の自転車を持って行かれた。 

 その日から彼女は歩いて集金に廻るしかなかった。 
 このように苦労の続く折も折、 今度は音羽で吉門さんの子どもを荷車でひいて死亡させる事故が起ったのである。いくら子どもが飛び出して来て馬車に過失はなかったにせよ、他人様の子どもを亡くしたことは言葉にはつくし難い気の毒な出来ごとであり、一家にとって暗い日が続いた。

 そんなこともあり主人は荷車引きを止め、昭和二十九年病気のため帰えらぬ旅に先だったのである。二人が結ばれてわずか二十年の夫婦生活であったがその間に三人のお子達は立派に成長し、大きな宝が残ったのである。
 電気料の集金も他人にゆずり、お子達の成長を心の支えに強く生き、今は長女の啓子さんと一しょに毎日毎日豆腐とコンニャク、アゲの製造販売に精出しているのである。

味が信条

 造りのベテランなら、いつも同じ味の豆腐ができると思うがそうではない。先ず原料の大豆が良くないといけない。
 「私はネー皆さんに美味しい豆腐を食べて貰うよう努めています。長いことやっていてもいつも同じ味のものはできません。ニガリを入れてシャモジで交ぜる時が大切です。この時は本当に豆腐に心が通じるような気がします」

 美味しい豆腐の製造に情熱を燃やして語られる。
 一番嬉しい時は、と問えば即座に「全部売れた時」 一番いやな時は「売れ残った時」と答えられた。 防腐剤を使わない新鮮な豆腐を早く喰べさせたい一念が伺われる。

一番左が挙さん


 「今は機械で豆をひくようになって随分楽になりましたが、それでも火のそばの仕事ですので夏は大変です。 何度も「もう止めようか」と思いましたが、まあ何とか今まで続けて来ました。 お客さんのお陰です」お客さんへの感謝の気持ちは忘れない。

 今までひき続けた豆腐を縦に積んだら富士山の数倍の高さにもなる。人それぞれに生き方はあるが一度決めた道をひとすじに歩み続け、「この事だけは私にまかせろ」 胸を張り、自信に満ちあふれる人生、豆腐一筋に生きる黒岩のおばさん、いつまでもお元気で手遣りの美味しい木綿豆腐を造り続けてください。

【出典】
1978年12月 第153号 広報 大野見
(発行 大野見教育委員会/編集 大野見村広報委員会)


挙さんを知る人に出会う

この3年後、挙さんは生涯を閉じた。
そう教えてくれたのは、挙さんの孫にあたる陽介さんだ。

中土佐町役場で課長を務める陽介さん

おばあちゃん子だったという陽介さん。
小さい頃はよくおばあちゃんと行火(あんか・炭火などを入れて手足を温める湯たんぽのようなもの)を布団に入れて一緒に寝たとか、豆腐を自転車で配達しに行ったとか、挙さんとのエピソードには事欠かない。

挙さんと陽介さんの兄

他にも、カルビーのポテトチップスが販売開始した当時、金銭的に余裕のなかった陽介さんら孫に、畑で採れたジャガイモを上げたお手製のポテトチップスを揚げてくれたというが、「いや、そっちの方が実質高価だよ!」と突っ込みたくなる。

市場で流通しているポテトチップスより、台所で揚げた畑のジャガイモを食べれることを贅沢だと思うのは、今が物質的に豊かだからだろうか。

愛ごと身体に取り込む豆腐

意外だが、当時、国産の大豆はなかなか手に入らなかったそう。たまに手に入ると作ってくれた国産大豆の豆腐は、いつもよりずっしり濃厚で、堅く、まだ少年だった陽介さんらはなかなか食べ慣れなかったようだ。

よく考えてみると、味噌も醤油も納豆も豆腐も、、、
日本の食卓は大豆に支えられているが、スーパーの陳列棚に並ぶそれらは往々にしてアメリカ・カナダ産が幅を利かせている。

そんなご時世に、一つ一つ手作業で、大豆は四万十町窪川の無農薬大豆と、裏山の美味しい湧き水を引いてきてる、今も残る数少ない豆腐屋がある。

高知県須崎市の「上分とうふ」

大野見の隣町・須崎市にある「上分とうふ」は、豆腐一丁100円の時代にあえて、一丁400円する豆腐を作り続けているが、その美味しさから足繫く通う常連が少なくない。
しっかり木綿の堅さを残しつつも、クリーミーで濃厚で凝固剤特有の苦味がない。塩だけで十分に堪能できるその旨味にはご主人の徹底したこだわりと熱意と愛を感じる。

市場で多く流通しているものより、隣町で作ったもののほうが高価であるという、ポテトチップスと同じ事態が豆腐にも起きている。

その製造過程やこだわり、原材料に違いはあるものの、「上分とうふ」と挙さんの豆腐屋が重なるのは、その熱意を地元のファンが受け取るという小さい循環ゆえだろう。

幸か不幸か、挙さんのあまりの熱心ぶりにその熱意と技量を継げた者は結局現れなかったそうだ。そういえば、陽介さんの口から語られる挙さんの人柄を伝えるエピソードはいつも豆腐とともにあった。
お気に入りだったアツアツのお揚げを友達と頬張る陽介さんも、できたての豆腐を求めて毎日通った村人も、きっと挙さんの豆腐に込める熱意や愛をも体に取り込んでいたのではないかと想像が膨らむ。

食すことは、そのものの栄養だけでなく、その場の雰囲気や作った人の思い、作る時間、買う時間、それらすべてを味わい、体に取り込む行為でもある。
そういう意味で、町に豆腐屋がある贅沢を、おそらく当時の村人以上にひしひしと感じるのである。


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