見出し画像

変わりゆくかつての村に立って。

人の生き様を保存する


選挙フェス!」という映画を観た。
2013年7月に行われた参議院選挙に立候補し、落選候補者最多の17万6970票を獲得したミュージシャン・三宅洋平に密着したドキュメンタリー映画。

彼は、音楽と演説を融合させた“街頭ライブ型政治演説”を「選挙フェス」と称して全国ツアーを行う前代未聞の選挙活動が、路上に多くの観衆を集めた。

選挙活動という姿を帯びた三宅洋平のエネルギーが、映画というタイムカプセルに残され、10年後、それを開けた私は彼のエネルギーを感じてしまったのである。

実際、彼が政治家になる日はおとずれなかったのに、だ。

ただそこには、「誰かが何かを変えようとした」
という事実とエネルギーが宙に浮かんでいた。
思わず、それを掬いたくなってしまったような夜だった。


「合成洗剤追放運動」が残したもの


「広報大野見」をめくっていると、36年前の1987年、「合成洗剤追放運動」があった様子が記されていた。

川の汚染にはいくつもの原因が挙げられる。
森林の荒廃、農業排水、砂利採取、家庭排水、工業排水。 幸い、四万十流域は極度の過疎で工業による汚染はまぬがれたが、他の要因で汚れ、昔の清流の面影はない。
川原はやせおとろえ、川岸にはヨシがびっしりと茂り、川の中には、アユの好む水苔も減り、青サイがそれにとってかわっている。清流を賑わせていたアユの群れ、ウナギ、アメゴ等はその数を極端に減らした。
こういった現状の中から遅れながらも、何とか昔の清流をとり戻そうという運動が持ち上がってきた。まず身近なことから始めようと、汚染原因の一つ、家庭排水の浄化としての合成洗剤追放である。

「広報大野見」昭和62年7月号(No,256)

合成洗剤の危険性周知と、石鹸の普及に
村民自ら尽力していたことがよくわかる。

村内で合成洗剤の勉強会を頻繁に開き、
市販の石けん使い勝手をモニターし、
手作りの廃油石けん作りワークショップを行い、
「広報大野見」に中学生や主婦が各々の熱い主張を書き連ねている。

しかし、この運動は4~5年で立ち消えになったそうだ。

この運動の一端を担っていた当時の総務課の女性職員がすでに逝去されていることもあり、どのようないきさつで立ち消えになったのかを知るすべがほぼない。

いずれにせよ、地元住民の話と記録の残る限りでは、この運動が大きな変革をもたらすことはなかったのである。

しかし、やはりこの川には微かに
「誰かが何かを守ろうとした」
「誰かが何かを変えようとした」
という想いと事実が漂っている。


廃れゆくかつての村に立って。


翻って、2023年。

ここ旧大野見村は、戦後4000人いたが、少子高齢化が進み、現在1000人を切るまでになっている。
これまで人口減少は加速してきたし、これからも止まることはない。


だからきっとこの美しい里山もいつかは野生動物の住処になり、木々が生き生きと生い茂る場所になるのだろう。

そう想像するたび、整えられた水田に美しい人間活動の儚さが映る。

朝陽が照らす近所の水田


私は、耕作放棄された田んぼを使って、山菜のイタドリを育てる地元の人々に出会った。

もともとはイタドリを高知県の特産品として売り出したいという、県の思惑のもと、地域の高齢者を巻き込むかたちで始まったらしい。


「村の高齢者が耕作放棄地を活用して山菜を育てて販売し、年金プラスアルファの収入で少しでも地域を元気に」。

と、形容すると聞こえが良いが、その妙にキラキラした文字面のせいで、実態との距離感が生まれ、彼らの本音を捉えそこねてしまいそうになる。

なぜなら、この活動には実際は利益がほとんどないのと、しかしそれでも彼らの活動を駆動させている火種は、もっと深く暗いところにあるからだ。


「本当に耕作放棄地をどうにかできるんでしょうか?利益が出ないのになぜ続けるんですか?」

いつかそんな質問をしたことがあった。
どう考えても限られた体力と日々を余暇として楽しんだり、有意義なことに使うべきだと思ったからだ。


「、、、、」



答えは返って来なかったが、

「野生にもどるな」

そんな心の叫びがはっきりと聞こえた。

それは、暗くて寂しくて半ば諦めも入り交じる雰囲気をまとった感情だった。



人間は結局、とてつもなく弱い生き物だ。
ここに住む人々は、自然の逆襲のそばで、
「ただ指をくわえてみていたのではない」
という痕跡を残すことくらいしかできない。

きっとそれも彼らは知っている。
知っていながらも、残された時間の中で
できることを淡々とこなしていくしかないのだ。


この美しい里山がいつか野生動物の住処になり、木々が生き生きと生い茂る場所になったとき、でもたしかにこの土地土地を守ろうと骨を折った村人がいたという想いと事実は宙に舞うのだろうか。

そうなったらいい。

その一片をタイムカプセルのようにここにわずかでも残せていたら、幸いだ。

同時にこれは彼らへの私なりのラブコールでもある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?