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人と自然が豊かな関係を築くために刃物が必要であるわけ

昭和43年から続く大野見の広報誌に編まれている鍛冶屋の歴史。

鍛冶屋は、都市で生活しているとあまりにもなじみのない職種のように見えるが、数十年前までは町に鍛冶屋がいる光景が当たり前だった。

大野見にもかつては鍛冶屋がいた。その頃の人と刃物と自然が築いていた豊かな関係性にもう一度、目を向けてみたい。


日本における鍛冶の伝来

鉄の文化の起源については明らかでないが、おそらくアルメニヤ地方におこったものであろうといわれている。前十五世紀以降急速に伝波したものであろうとされている。

日本では、古く「カヌチ」と称したものであるが、これは、金打 (カネウチ)のちぢまった名であるという。また、「フイゴ(鉄を加工する高温を維持するのには重要な道具)」を使用する「たたらし(たたら師)」・鋳物師ともに、「かなや」と総称されてきた。

 かじの技術は、日本では歴史時代の初めから知られていたが、応仁天皇のとき、韓の鍛人卓素が日本に移住して以来、朝鮮からの鍛治師の移住がつづき、半島の帰化人が、近畿地方を中心に鍛治師の集落をつくり、在来の倭(やまと) 鍛治のもつ技術と、とけあって、後世の鉄文化の素地をなしたといわれている。

当時は、おそらく中央の政府、貴族、寺院のもとめに応ずるのが、鍛治仕事のほとんどであったろうか。以後、地方の開発が進み、荘園が確立するようになると、領内の自給体制をととのえるために、招かれ、保護されて各地に定着するようになったとい う。

 それにともない、まぐわ、犂 (すき)、くわ、鋤(すき)、かまなどの鉄製農具が普及するようになったと思われる。 なかでも武士の勢力が興隆期にはいると、刀剣などの武具製造が盛んになり、刀鍛治の本が各地にでき、今に残る名刀が備前・備中から生まれた。

また、鉄砲の伝来にともなって、鉄砲鍛治も分化した。 さらに、生活用具の一般鍛治、或いは農鍛治も分業化がなされたようである。 

 農鍛治は、定住した鍛治と、職場を移動する出鍛治が長く行われた。 「清良記」によれば、村々を巡歴する農鍛治が、村を訪れると、農家では前から用意していた鍛治炭をだし、農民自らが向う槌を打つものとされていた。

また、ふいごをふく者も出した。 そして、一 日一升の賃米を払うか、労力の提供で支払いをするのが通例であったという。この風習は、離島などでは昭和の初期まで残されていたといわれる。

大野見における鍛冶屋の始まり

大野見の鍛治の歴史は、つまびらかでない。文献も残されていないので、推定の城をでないが、一応次のように考えられる。日本の鉄文化の普及が地方に及び、さらに、荘園制が確立するにつれて、 鍛治がはいってきたと考えられる。

さらに、平安後期、京都から下った津野氏の土佐入りに従い、津野氏の勢力が確立し、津野文化が栄えるに従って、鍛冶師が定着するにいたったであろう。

それも鍛治文化の初期には、巡歴のいわゆる出鍛治であったと思われる。その後、ときをへるに従って、遍歴の生活から集団定着の道を歩んでいる。

四万十川と吉野川の合流点、現在の島神社のほとりを定住地とさだめ、各部落へ出鍛治も行ったと思われる。 この地を鍛治屋敷とよばれる由縁であろう。古への鍛治場は水辺に求めている。このことは、鍛治の仕事が火を用いると同時に水が必要であったからである。

なお、この地に定住するにいたったのは、中央地域が大野見発祥の地であり、本村農耕の中心地であり、鍛治を中心に鍛治屋敷を形成し、集団定着したもので、以来鍛治職が居をかまえている。

時代の変遷につれて、流転の出鍛治は次第に定住し、鍛冶工として職場をもち、かたわら農耕兼業の道をえらび、生計の安定をはかっている。

その一人に、萩中、程落に「かじや利兵衛」さんがいた。利兵衛さんは嘉永の頃(凡そ一二〇年前) の人でこの地に定住、鍛治をはじめたという。利兵衛さんは、当主池田恒幸さん(2023年没)の曽祖父で、鍛治工を生業とし、農業をかねていた。 その人の作として風呂鍬、かじ畑鍬、切り畑鍬が残されていて、 村の郷土館に収集されている。また、かま、くらかぎ四センチ位の大きさのものをつくり、えびす様にまつってある。

出鍛治の跡としては、下ル川に鍛治屋敷とよばれる地があり、この地ではいわゆる出鍛治による農具の修理などをおこなったあとが、はっきりしている。

現大野見地区の地図


このように、大野見の鍛治工も、日本の鍛治の歴史のたどった道を歩みながら、次第に分業化の傾向をみせている。話題に残り、或いは、今も専門工として生きている人たちに、次の方々がいる。

「鍬の平かじ」で名の知られた、 愛称石村の平さん、犂をうたしたら右に出ないとうたわれた信かじの通称でよばれる石村信吉さん等は、話題に残る人である。

現在する人(※1974年時点)には、「うばしの実孝さん」がいる。 うばしを打たしたら当代随一、一度実孝さんのうばしを使ったら、ほかのうばしは使えないといわれる名人肌の吉岡実孝さんである。加えて刃物の切れ味はまた格別という。 特に、山仕事に使われる斧なたなどは独得の切れ味があるといわれる。

実孝さんのうばし
実孝さんの銘が刻まれている

次にあげる人に、鎌鍛治で名のとおった石村務さんがいる。 鎌なら 「鎌鍛治じゃなくちゃ」と、近郊近在に名が売れており、嫌かじの異名に恥じない切れ味をもっている。これも名人肌の人といえるであろう。

若手のホープとして長谷川尊徳さんも、本村では異色の鍛治さんといえるだろう。刀鍛冶の修業を積んで、長門守長雲斉尊徳の銘をもつ刀鍛冶で、吉野の鍛治屋敷に居を構えている。現在は、殆んど、刀は手がけてなく、性来の器用さがあるし、鉄工業を中心にしている、異色の鍛治工といえる存在である。

以上、おおざっぱに大野見の鍛治の歴史の一考察をしてみたが、 近代産業の中で大量生産される今、昔ながらの鍛工製品が影をひそめるのも止むを得ない世相ともいえるが、名人芸にも等しいこれ等の人々の作品を後世に残し伝えることも、現代人のつとめであるかも知れない。 (参考文献、平凡社の大百科辞典)

【出典】
1974年8月 第101号 広報 大野見
(発行 大野見教育委員会/編集 大野見村広報委員会)



【考察】人と刃物と自然の豊かな関係


最近、刃物を手に持ったのはいつ、どこだろう?
おそらく多くの人が、料理をするために台所で、ではないか。

どれだけ都会に住んでいて、自然と程遠い暮らしをしている人でも、野菜や肉を通して自然や命を体に取り込んでいる人は少なくないだろう。
はたまた、仕事で忙しくてカップラーメンやスーパーの惣菜に助けられている人も多いはず。

台所以外で刃物を使うのは、大工、林業者、猟師、製材屋、鮮魚屋、精肉屋など、不思議なことに、どれも木材や生き物といった自然を相手にしている人が多い。

昔は、炭焼きや木地師、鍛冶職人、瓦師、などの自然を相手にする生業、さらにそれを支える商売道具を作る職人が多かった。
つまり、刃物は長い間、自然と人間との接点に存在してきたのだ。

そういった視点で刃物を見ると、自然条件や使用用途、使い手の身体、すべて異なるのだからそれだけ多く刃物の種類があるのが至極当然である。

たとえば、鉈(なた)一つとっても、腰鉈、剣鉈、海老鉈などいくつも種類がある。

腰鉈は、刃が長方形をした一般的な鉈のイメージをもつ代表的な形をしたもの。主に薪割りや竹割りに使われる。

腰鉈


剣鉈は、大型ナイフのような形状をしており、山の中での枝打ちや狩猟での解体に使われることが多い。

剣鉈


海老鉈は、先端にコブまたは石と呼ばれる突起がある形状をしており、硬い地面の上で薪割をするとき、強く打ちすぎて刃が傷むのを防ぐ役割をしている。

エビ鉈

さらに柄の種類、長さやカーブ、両刃か片刃か、素材、重さなど、種類の多さをあげだしたらキリがない。

「うばしの実孝さん」の鉈は、粘りがあってよく切れるが、乱暴に使うと曲ることがあった一方で、別のとある鍛冶屋さんの鉈は切れ味良くて曲がらない分、刃が大きくかける事があった、なんて昔の山師から聞く話も。鍛冶屋さんの性格や好みが一つのまちでもこんなに多様に残っているのは、それだけ使い手の性格や好みも多様であった証だろう。

刃物=危ない、というイメージだけがあまりにも先行してしまい、子供に触らせることに抵抗がある人少がなくないのも、自然との接点の少なさを踏まえると、無理はない。

最低限の種類が並ぶホームセンターの刃物は、個人の営む受注生産型の鍛冶屋が大量生産型の大企業に集約されていく、という、資本主義社会における自然淘汰の当然の結果である。手仕事を通して自然を利用してきた人々の自然に対する造詣の深さに、どうしても寂寥感がぬぐえないのである。



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