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『大五郎4ℓ』

月の初めにジンの瓶を5本とワインのボトルを3本、マンションのゴミ捨て場に持って行った。我ながら「終わっている」と思った。実際、僕の生活は終わりかけていた。
少し前に、キッチンの高さが合わないと言って、出て行ったきり、彼女は帰って来なくなった。それが原因かはわからないが、部屋を掃除した。ゴミを捨て、キッチンを油落としで磨いた。ずいぶん汚い使われ方をしていたんだな、とその時に気づいた。全く知らなかった彼女の一面を見てしまった気がした。もう、どうでもいい話だが。
そしたら、なぜかその夜を境にお酒は全く飲まなくなった。飲みたいと思わなくなったのだ。
しばらくは、不思議なこともあるものだ、と思っていただけだが、ある時、なぜかこれはいけないと思って、ビールを買った。正確にはビールみたいな何かだ。近頃よくわからないビールが多い。
飲んでみると、全然美味しくなかった。お酒を飲み続けていた時はひどい状態になるとわかっていたのに、飲み続けていた。よくわからないが、何かを取り戻そうと思いながら飲んでいた。幸せとかそういう類のものかもしれない。なのに今はまったく美味しくない。まあ、いいかと捨ててしまうほどだった。
若い頃、北九州出身の同僚が言っていた。
「子供の時遊びに行った家に大五郎の4ℓのボトルがあると、その家は大体終わってる」と。
わからないでもない。ストロングゼロとかいう合法ドラッグめいた酒類がまだ開発されていなかった頃、4ℓの焼酎かウィスキーというがどこかの家でよく見られた。
確かにまとめ買いすれば安いかもしれないが、あんなものを買うような人間が節制や節度を持って、お酒を飲むことはないだろう。あればあるだけ飲むような人間が買っているはずなので、あっという間に4ℓを飲み干し、次の4ℓに取り掛かる。そして、みるみるうちに酒量が増えていき、酒代もガンガン増えていく。やがて落ちるところまで落ちる。そのことを同僚は子供ながらに察していたのだ。
僕もやがて大五郎に手が伸びていたのだろうか。月の終わりに4ℓの空ボトルが4、5本転がっているような生活をしていたのだろうか。
そう考えると僕は奇跡のように、神の恩寵がやってきて、穏やかな生活がもたらされたようにも思える。交通事故に巻き込まれたのに、無傷だったような奇跡だ。神様もきっと戯れに僕を救ったのだろう。
飲まなくなった日々を僕はまるで生きながらえてしまったかのように生きている。缶や瓶が占拠していた玄関先は驚くほど広くなった。

飲まなくなると、いくつかの変化が生まれた。
ひとつは健康になったこと。もうひとつは時間が出来たこと。あとはお金を使わなくなったこと。普通で考えればいいことだらけだ。
こうなると人はより高みまで行ってみようと思うものだ。ひょんなことから得た快適な暮らしをより極めてみようとするのだ。少し前までその逆をして、落ちるところまで落ちかけていたのだから、実際はもう少しバランスを持って生きた方がいいはずだが、そういうのは他の人に任せたい。
極み。善良の極み、と考えて、僕のあっさい知識は、散歩して小洒落たカフェに行くことだと答えを出した。しかも朝に。
朝食を食べ、散歩をして、行ったことのないカフェに行った。平日ならお客さんがわんさか並んでいるカフェだ。カフェというか正確にはコーヒーショップだ。
入ってみるとよくわからない『スチームボーイ』に登場しそうなコーヒーを何とかする機械に出迎えられる。注文をしようにもどこがレジかわからない。店をうろうろする。さも自分はこの店を知っているんですよ、という顔をして歩き回る。その間、ずっとスチームボーイはゴンゴン、ウンウン、唸っていた。果たしてここはこんな工場みたいな音を立て続けて、快適な空間だと言えるのか、と思ったが、店員たちの笑顔はそんなことはおくびにも出さない。
ついに観念して、コーヒーを注文する。思った通り気の滅入る作業だった。まず僕の声が相手に届かない。相手の声も僕に聞こえない。大昔、高校生くらいの時に工場でバイトしたことがある。大体こんな感じだった。お互い何となくで会話する。身振り手振りが最大の武器だ。だが、ここはカフェだ。工場ではない。なぜだ。
「甘いコーヒーですか? ブラックですか?」と店員が言った。しかもマスクまでしている。仕方ないことだが聞き取りづらい。ブラックだと僕は答える。
「どのコーヒーに致しますか?」的なことを店員が続けて訊いてくる。
ちくしょう。
訳のわからないコーヒー豆が並んでやがる。カタカナで書いてるはずの名前が全然頭に入ってこない。とりあえず値段で決めようとするが、軽く1000円を超えてくる。まるで銀座や新宿にある純喫茶みたいな値段だ。比較的低価格なものとして、税抜きで700円くらいのものがあった。
しかしこれは罠だと思った。ここに飛びつくとこの店員の女性は、僕のことを背伸びして、店に入ってきた貧民が! などと思うだろう。そうしてこの女は、何百、何千という客を見下してきたのだろう。恐ろしい。
僕は罠にはかからない。900円くらいのものをチョイスする。税込で1000円だ。ギリギリ高等遊民的な値段である。しかし、これこそが店の狡猾な罠であるという一抹の不安は拭えなかった。真のコーヒー通は値段など気にしないはずだ。好きだったら700円でも頼むのが通だろう。
豆の種類の名前は言えないので、メニューに描かれている絵を指差して注文する。やれやれ終わったと思ったら、今度はコーヒーの抽出方法を選べと言ってきた。
ちくしょうめ。
こんなこと、休日にここに並んでいる男女など理解できるのか? 幸い僕はゴールドのフィルターでコーヒーをドリップしているくらいの違いがわかる男だ。すぐにプレスを指定する。やれやれと思っていると、「ホットかアイスか」などと今更なことを尋ねてきたので、完全に油断していた僕はそれを何度も聞き返した。ゴンゴン、ウンウン。ゴンゴン、ウンウン。スチームボーイに阻まれながら、何とかホットと伝える。とても疲れる。

コーヒーが到着したので、ようやく一息入れることが出来た。この一息は何の一息なのだろうか、と思わないでもない。疲れたのは間違いなくこの店のシステムのせいだ。コーヒーの味は普通だった。
客は少ない。平日だからだ。それでも幾らかは席が埋まっている。人気はあるんだろう。こんなにスチームボーイが荒ぶっているのに。
中身はどうであれ、僕の朝は完璧である。側から見れば。ルー・リードの「 Perfect Day」のようである。Bメロくらいに今日の情景を入れて欲しいくらいだ。それくらいパーフェクトだ。

コーヒーを飲み終えると、僕は店を出た。パーフェクトな時を過ごす。善良の極みに達する。その目的を遂げたのだから、僕は帰る。
帰り道に寄ろうと思っていた小洒落た古本屋は閉まっていたが、それはこの完璧な午前をなんら傷つけることは出来ない。
僕は通ったことない道を通り、見たことのなかった店の前を横切り、僕の頭の中の街の地図を更新し、いつものスーパーに寄って、焼酎「大五郎4ℓ」を買って家に帰った。

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