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考えること・悩むことは無駄なんかじゃなくて、豊かさ。〜川代紗生さんの記事に救われた〜

今回は、川代さんのこの記事の紹介+僕のちょっとした考えごと・悩みのシェアといった内容のnoteです!

「そんなことで悩むのは時間の無駄」

自己啓発本の棚をざっと眺めるのは面白い。世の中の人が何について悩んでいるのか、一般的にどうやって解決しているのか、人生に対してどんな価値観を持っているのか……そういうことを、客観的に観察できること。考え方のブームのようなものが、なんとなくわかる。「シンプル」「悩まない」「前向き」という言葉が、そういう言葉を使われている本が、この棚には、あまりにも、多い。

あとがきなんかを読むと、たいていの本に「感受性の強いあなたが、この本を読んで少しでも、楽に、肩の力をぬいて生きられるようになるなら、こんなに嬉しいことはありません」というようなことが書いてある。

頭をズガン、と殴られたような衝撃が走った。まるで、私の今までの人生を、全否定されたような気分だった。そしてその瞬間、私が〜もやもやしていた理由が、はっきりした。

川代紗生さん

何事もシンプルに、悩まないで、前向きに捉えて、たくさんの挑戦をして、アツく生きていく人生が最近のトレンドで、それに合わせようとしているから自分が苦しくなっているんじゃないか?と思ったんです。楽に肩の力をぬいて生きたい人、そしてそれが出来る人はそのように生きれば良いと思います。

でも、みんなが同じような生き方をし始めたら気味が悪いし、面白くない気がします。その流行りのスタイル(生き方)が性格的に合わない人はどうすればいいんでしょうか。僕自身、考えようと思っていなくても色々と細かいことを考えるタイプです。でも、流行りとちょっとかけ離れたこの生き方も、尊重されて良いと思うんです。「悩まないでサクサク進めていく人生」には無い、奥ゆかしさというか深みだってあると思うんです。

街行く人に「考えたくなくても考えちゃうタイプの人の人生を、生きてみたいですか?」と聞いたら「ノー」と言われるかも知れないけれど、「少数派」ならそれはそれで「希少で価値がある」とも言えますよね。こういう感性も存在しないと、きっと世の中は上手く回らないんだと信じておきます。何が言いたいかというと、色々な本の考え方に触れる中で、僕みたいなタイプの人間は「自己否定された感覚」を少なからず感じてしまうかも知れないけれど、気にしなくて大丈夫だということです。

「考えすぎ」=「無駄」?

「感受性が強い人は、ときに、必要のないことにまでも、傷ついてしまいます。それは時間の無駄ですし、です」完全に短所なのか?

「悩んでても、何も前に進まないよ。本当に優秀な人っていうのは、いつも充実しているから、悩む暇もないんだよ。いつまでもぐじぐじしてないで、とにかく、行動だよ、行動。成長したかったらね」

貴重な人生を無駄にしてしまっている人なのだ。みんなから見れば。私が今まで、考えて考えて考えてきたことを、多くの人は、「いらないもの」とみなす。

確かに、忙しくしていたら悩まないし幸せかもしれないけれど、「忙しさによる感覚麻痺」で一生が終わってしまうのは嫌だと思うんです。まるで「回し車の上を走り続けるハムスター」のように僕には思えてしまいます。高校生までの生活は、まさにハムスター状態でした。自分の生活に一切のコントロール感が無くて、目の前に現れる課題やら部活やらを全力でやっていたら気付けば18歳になっていたという感覚です。

大学生になっても、自分で教科を選べるとはいえ、学校に自分の時間の半分以上は占有されている生活が4年生の真ん中まででした。自由は増えたし、自分で決定している範囲も広くなったけれど、やっぱりハムスター状態だった気がしています。バイトやサークル活動をしながら卒業に必要な授業に出席して、提出物を出して、試験対策をして期末試験を乗り切り、夏休みは帰省して、旅行を楽しみ…。自分でコントロールしているようで、イマイチそうでもない時間を過ごしてきたような気がします。

「世の中の大半の人は立ち止まること無く走り抜けるから、そもそもハムスター状態の何が悪いのか?」と言われたら、なんて返せば良いのかわかりません。今、自分は調子が良くなくて、いつも通りの100%で走れない現状だから、そんな自分を肯定するために忙しさを否定しているだけかも知れません。「甘え」とか「言い訳」かも知れません。

ですが、少なくとも自分の中では、違和感があるんです。モヤモヤとした感情に蓋をしたまま前に進む感覚がどうも好きじゃなくて。ゆっくり消化してから、納得して次に進みたいんです。完璧主義だから、こんな風に一個一個腹落ちさせないと前に進めないだけかも知れません。正解なんてないとは思うんですが、今の自分の心は、立ち止まってこの違和感と向き合う事を求めているんだろうなぁと感じています。

この先は、ただ川代さんの言葉の中でも気に入った部分を紹介するだけにしたいと思います。ほぼ僕の言いたかったことを代弁してくれているので。

そして、完璧主義の悪い癖で1回やり始めたら最後まで「やらなきゃ」という自分の中での思いに気付いたのであえて無理して書かないで途中で投げ出してみようと思います。

「真剣さ」から来る生きづらさ

考え方が好き。価値観の交換が好き。自分の気持ちを深く深くほりさげていくことは、私にとっては当たり前。考えて分析することが、好き。自分や、家族や友人が何を考え、何を思い、何を大事にして生きているのかを考えるのはとても好きだった。面白いと思った。

どうしてみんな「悩むな」って言うんだろう?どうして、悩むことは間違ってるみたいに言うんだろう?どうして当然のように、悩まずに、苦しまずに、考えすぎずに、前向きに肩の力をぬいて行動するのが正しくて、不安や恐怖をかかえて苦しむことが、間違いみたいに言うんだろう?悩んでうじうじと落ち込むのは、時間の無駄みたいに言うんだろう?

子どもの頃は、それでも、自由にあばれられた。泣いたり笑ったり、怒ったり、感情を爆発させることができた。悩んで苦しんで、わがままを言えた。

でも大人になるにつれ、素直に悩むことができなくなっていく。自分の気持ちに蓋をするのが、うまくなっていく。苦しいとか悲しいとか怒ったとか、そういうマイナスの感情を押し殺せるのが大人なのだ。感情をむき出しにしないのが大人のマナーなのだ。自分がどんなに辛くても、辛くないふりをしなければならないのが、大人なのだ。

いや、わかる。それはわかる。お金をもらって働いている以上、仕事場に私情を持ち込むのはフェアではない。輪を乱すような感情は表に出されるべきではない。それはわかる。わかるけど。なんか、何かが、むなしいというか、寂しいというか

私は一歩一歩大人に近づくにつれ、感情をコントロールする方法を学んでいった。私よりも大人の先輩や親は、感情に蓋をする方法を知っていた。みんな平気な顔をしていた。泣きたくても泣かなかった。私もそうならなければならないんだと思い始めた。大人というのは理性で生きなければならないのだ。悩みは誰にでもある。でもそれをずっと悩み続けるのではなく、行動したり頭でいいきかせたりして、なるべく苦しまないようにしなければならないのが、世間で言う、大人なのだ。

「悩みがない」だけが幸せじゃない

前書きに「誰でもできることなら悩まずに幸せに生きていきたいですよね」と書いてある本もあった。でも、どうして。どうして大人になったというだけで、「悩んじゃいけない側」に、来てしまったんだろう?

みんなが口々に言う、「成長」って、いったい、なんだよ。「成長」とか、「成功」とか。私たちは、曖昧な言葉に、あまりに簡単に、振り回されてはいないか。「成功」や、「シンプル」や「気楽さ」や「前向き」という言葉たちに、どれだけ思い込まされていたのだろう。それが、紛れもない幸せというやつなのだ、と。

私の心の中にはいくつも、いくつも煩悩があって、やりたいこともあって、嫌なこともあって、好きも嫌いもちゅうくらいも、嬉しいもむかつくも悲しいも楽しいもめちゃくちゃたくさんあって、毎日、津波みたいに押し寄せる。とてもコントロールできないくらい、いろいろな感情や欲望に振り回される。でも、そういう自分に、「それでいいよ」と、私は、言ってあげたい。悩んで、苦しんで、それでもそういう感情を細かく切り刻んで分析するのを楽しいと思う自分を、深く深く掘り下げるのが好きな自分に、「何もおかしくないよ、間違ってないよ」と、言ってあげたい。

自分くらいは、自分だけは、自分のことを認めてあげないと、かわいそうじゃないか。何も、ありのままの自分をすべて、受け入れようと言っているわけじゃない。だって嫌いなところ死ぬほどあるし、それは無理だもん。でも、たくさんのコンプレックスはさておき、感受性の強い部分くらいは、認めてあげたいと思う

無駄だと思わない。意味がないとは思わない。前向きに意欲的に毎日イキイキと生きている人々を否定するつもりは一切ない。むしろそういう人たちに憧れるし、なれるもんならそういう生き方がしたいと思う。

ただ面白く生きられるなら、ただの変なやつにでもなんでも、なってやろう。私は、自分の道を信じることにする。さあ、シンプルに生きようとする大人たちに、反旗を翻そう。

孤独感に苛まれるどん底の時期に本当に必要なのは、「今すぐに使えるスキルやライフハック」ではなく、気が済むまで自分と向き合う濃密な時間。孤独感や承認欲求、コンプレックスなど、自分の生きづらさと徹底的に対峙し、その感情とどう向き合うか

さいごに

「考えすぎてしまうタイプ」である自分と、今の社会で理想とされる生き方のギャップで結構苦しんでいたなぁと気付きました。社会での流行からズレているからってそんなに気にしなくて良いですよね。

そしてなにより、今まで明確に言葉に出来ていなかった思いが綺麗に代弁されている川代さんの記事との出会いは感動的でした。この今の自分が抱えている違和感・感情と気が済むまで向き合って、また動き出せば良いんだ。そう思えました。(思えた!と言い切りたいけれど、これで良いのかなという不安も大きいです)

今のこの僕の鬱の回復期は、ある意味与えられた機会であり、人生の大きな転換点な気がしています。多くの人は立ち止まって考えることが出来ないようなことについて、考えられる余裕が与えられている今の現状に感謝です。またいつものように活動的な毎日が送れる日を楽しみにしながらも、今はゆっくりと休みたいと思います。楽しみな思いと、焦りから来るアクセルの踏みすぎで体力を使い切って、次の日に寝込んでしまわないようにペース配分には気をつけます笑

最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。