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私を甘やかすということ|「ということ。」第26回

三兄弟の一番上だから、という訳でもないだろうけど、《誰か》に甘えた記憶はあんまりない。両親にはもちろんのこと、例えば友達に「一緒に写真撮ってくれない?」だとか、妹弟に「うちに来てくれない?」とも言えず、かと言って心底それをして欲しいとも思えず、けれどどこかでそうして欲しいと思っていることも、確かに事実なのに。

甘える、というのはそれが出来る人にしか許されない、絶対的で暴力的な特権だ、と思う。「甘えん坊」や「甘え上手」といった言葉がまとう、字の通り甘やかな香り。憎めない愛らしさは、誰にも文句を言わせない。春の中をひらひらと舞う、白いワンピースのようなそれに憧れてばかりだった私の甘えは、いつだって物体に対して働いたように思う。

幼いころ、積み木や人形を仕舞っていた玩具箱には、宝石のようにカットされた色付きのプラスチックが数え切れないほど入っていた。太陽だろうが蛍光灯だろうが、光に透かすとつるりと光り、色とりどりの彼らは子ども部屋の中でいっとう喧しい存在だった。けれど、母に怒られたり友達と喧嘩したりして落ち込むと、決まって私は彼らに慰めてもらった。なるだけ淡く、切なく、やさしい色の子を選び、出窓の縁に並べる。サイダーのようなみず色や、妹のかかとに似たうすもも色は、砂糖菓子のような甘さで、私の味方になってくれたものだ。八つ当たりに遠くへ投げても、その場所でまた、つるりと煌めいた。

一人で家の外に出ても許される年齢になると、今度は近くの公園にある、ぐるぐる回るまるいジャングルジム(私はあれの名前を知らない)が味方だった。力任せに回していると、世界をミキサーにかけたように、悪いことも嫌なことも、ほんの少し良いと思えたことすらも、全てがまんべんなくかき混ざり、何かがリセットされた気持ちになれた。自分の脳みそが、あるいは心が新品になって、ようやく私はご機嫌で家に帰るのだ。高速で回り続けるあの子を残して。

大人になった今は、台所のガスコンロがその役目を担ってくれている。仕事で落ち込んだり自己嫌悪になったりすると、後回しにしてしまった油汚れが残るそこを、自分の顔が映るまで磨き上げる。合羽橋で買った上等なたわしで、ごしごしごしと体重をかけて。乱暴にぶちまけた中性洗剤を布巾でぬぐい、仕上げにアルコールでていねいに拭く。なんの落ち度もない完璧なコンロは、私の曲がった背中をやさしく叩いてしゃんとさせる。

自分の甘やかし方。私のそれは、ストレス発散と呼ばれるものと紙一重の、あまり可愛らしくない方法で行われる。それが正しいのか不健康であるのかは、気にしても仕方ないようにも思う。結果私は、プラスチックの欠片に、回るジャングルジムに、汚れたコンロに、助けられてしまっていて、彼らは黙って私にされるがままになってくれる、貴重な味方たちなのだ。私を甘やかすのに、人の言葉は要らないのかもしれない。

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