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「死にたい」なんて

私の彼氏は死にたがり屋だった。
これは、初めから分かっていたことではなくて、付き合って少し経って分かったこと。
関係が深まったからこそ見えてきた彼の一側面だった。

「死にたい」と、言われるたびに辛かった。
もちろん死んでほしくなんかない。
でも、それって私のエゴ?
グチャグチャとたくさん考えて、考えても「死なないで」しか言えなかった。

調べてみると、希死念慮の強い人に向かって、「死なないで」と言うことはタブーのようだった。
彼とどう向き合うべきか、たくさん調べて、様々なものを読み漁った。

そして、よくわからなくなった。
結局、私は「死なないで」ということしかできなかった。
それが本心で、一番伝えたいことだった。

私が死なないで、と言えば、彼は「どうして?」と返す。
その問いに理路整然と答えることは難しかった。
「私が、死んでほしくないから」
「一緒に〇〇へ行く約束をまだ果たしていないから」
そんなくだらないことしか返せなかった。

「でも、死んだら悲しんでるところなんて見られないから、自分には関係ないことだよ」
と、ごもっともなことを言いながら、それでも優しい性格がゆえに、彼は私を悲しませまいと、死ぬのを一旦保留にしてくれた。

そんな繰り返しで、彼は少しでも物事が上手くいかないと、「死にたい」と言った。
「死んでほしくない」と伝えてもなお、変わらない彼の態度に、腹が立つこともあった。何度も言ってるのに!それでもまだ死にたいって言うなんて!と。

彼が死にたい理由はたくさんあった。
その中には、「生きていても楽しくない」というのも含まれていた。
私は、自分が介入できる余地をここに見出した。

そして、「二人でやりたいことリスト」を作成した。
今でも随時更新されているこのリストは、大小問わず一緒にやりたいと私が思ったこと、二人で話していて出たやりたいことを書き貯めている。
そして、暇さえあれば、この「やりたいこと」を消化する作戦会議をする。

こうして、この作戦は功を奏し、彼はこのリストから生まれる「楽しみな予定」のために、それまでは辛いことがあっても死ねない、と思ってくれるようになった。

そうしてこれが習慣になり、彼は「死にたい」と言わなくなった。
徐々に減っていったから、私自身も気づいていなかった。
でも、たしかに、ここ数ヶ月彼の口から「死にたい」を聞いた覚えがない。

彼も自覚があるようで、「そういえば、最近『死にたい』って思わなくなった」と笑って話してくれた日があった。私は嬉しくて涙が止まらなかった。


「死にたい」と言う彼の、その気持ちを受け止めることは、私自身にとっても簡単なことではなかった。
「こんなにウジウジした面倒くさい奴のこと、よく見捨てないね」と彼にも言われたことがある。
でも、それでも私は、なんとしても彼を救いたかった。
見捨てるなんて選択肢は初めから無かった。
なぜなら、私も死にたいと思っていた人間だから。

自分に自信がなかった。
辛くて、苦しくて、先が見えないのに、そうまでして生きていく意味がわからなかった。
生きている意味も、死んではいけない理由もわからなくて、どこにいて何をしていても私は邪魔者で、死んだ方がマシだ、そんな思考に支配されていた時期があった。

どうやって乗り越えたのかは、もう思い出せない。
恐らく、父の自殺のせいで、「自殺」という道が閉ざされ、仕方なく生きていく方向で考えるようになったのだと思う。

「死にたい」に支配されている時の、絶望的な気持ちを経験したからこそ、彼の気持ちが少しは理解できたし、乗り越えられると信じていた。
もちろん、これらはどれも私のエゴで、彼に頼まれたわけでもない。
徹頭徹尾、私の自己満足であった。

でも、彼は今(一時的かもしれないが)「死にたい」気持ちを乗り越えられたようで、その過程に私は寄与できたようである。
その事実が、たまらなく嬉しい。自己満足だから。

次の「楽しみな予定」は春休みのユニバ。
彼の大好きなポケモンがついにコラボするとのことで、慌ててチケットを購入した。
この予定を楽しみに、彼は今年度最後のテスト期間を迎え撃っているよう。

もし、あなたの大切な人が、今「死にたい」気持ちに支配されているなら、根本的な解決を試みるのもいいけれど、「一旦保留」という遠回りで、なあなあにしてしまうというのも、案外いい方法なのかもしれない。

どうせ生きるなら楽しく。
私の根本的に楽観的な性格が幸いしているのかもしれない。


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