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長い人生を短い時間軸で生きてしまう僕らは

ふとカメラロールを開いてみると桜の写真でほとんど埋め尽くされていて、一瞬「今年の桜も綺麗だったな」なんて心が動きかけたけれど、「最後の写真が桜だなんて、普段写真を撮らなさ過ぎだ」という呆れと、予想外の暑さで滲んだ額の汗が、自らを現実に引き戻す。

奇しくも、いや、これはある意味現実逃避なのかもしれないけれど、余裕がない時ほど「あいつは今頃元気にしてるかな」なんて考えてみたりする。

あいにく、それをすぐに確認できる術もなければ、確認できる次の予定も決まっていないのだけれど。

「すっかり疎遠になってしまった」
「もう会うこともないのかもな」

初めてまともに覚えた四字熟語は確か「一期一会」で、あの頃は何となく「一度きりの出会い」くらいにしか解釈できなかったけれど、今になってその意味がやっと分かった気がする。

人生における“答え合わせ”はいつも決まって遅い。後になってから気づくことばかりだ。

ただ、そうやって後になって気づいたからこそ、今ではこうも考えている。

たとえ瞬間的には疎遠になっていたとしても、「元気にしてるかな」とふと思い出してしまうのならそれは疎遠ではない、と。

長い人生を短い時間軸で生きるのは、実はもったいないことなのかもしれない。

終わってしまった関係、辞めてしまった習慣、諦めてしまった夢。

そのどれもが実は、終わらせた関係、辞めたことにした習慣、諦めたことにした夢で、長い時間軸で考えれば、決して疎遠にはなっていない関係、今はやっていないけれどこれからまた始める習慣、心の奥底に今だけしまってある夢、なのかもしれない。

確かに、前ほど文章は書かなくなってしまったし、言葉や表現に対する熱量は低くなったかもしれない。それでも、数週間に一度だったとしても、こうして言葉と向き合い文章を書いている。長い時間軸で考えれば、十分“続けられている”と言える。

出会い、習慣、想い、長い時間軸で考えれば終わっていないそれらが、きっと誰しもあるはずだ。

人生は長い。もちろん、何があるか分からないしいつ死ぬかなんて誰にも分からない。

ただ、そんな誰にも何も分からないことを気にして生き急ぎ、合理性ばかり突き詰めて温かみのある何かを失ってしまうくらいなら、人生とは自分が思う以上に長い物語で今はまだ第一章、実はまだプロローグなのかもしれない、なんて思っていたい。


今疎遠になってしまっているあの人も、あいつも、いつかまたどこかで会えたら嬉しいし、今は眠っている決意も、祈りも、いつかまたどこかのタイミングで沸々と湧き上がったら嬉しい。

そんな長く、ゆったりとした時間軸の中で、僕はまた明日から目まぐるしい1日、1週間を刹那的に生きていく。

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