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自分さえ知らなかった未来に今自分はいる

階段を右足と左足で交互に、リズミカルに降りていくように、日々何かが心に浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。それを言葉にする暇もなく。

言葉にしたくなかった葛藤。
言葉になれなかった苦悩。
言葉にすべきだった恋心。

そういうものほど案外消えずにずっと残っていたりするわけだけれど、消えてしまったことさえ思い出せないような感情の方が、きっと多い。

何かを忘れたり忘れたことさえ忘れてしまう、失くした分だけ拾っていく、人生とは意外とそういう繰り返しで、どれもが刹那的だ。

後になってみればどんな出来事も日々も極めて一瞬で、僕らはそれを「今を全力で生きている」と解釈してみたり、「惰性で日々を過ごしている」とも解釈してみたりする。

そうしていつの間にか、自分さえ知らなかった未来に今自分はいる、とふとした時に気づく。

行き当たりばったりな人生。

「無計画に生きている」なんて聞こえが悪いけれど、計画的に進められることなんてほとんどないのだ、ということを僕は知っている。

人は一人では生きていけない。だから、何事も計画通りにはいかない。

仕事も、恋愛も、人生そのものも、他人という変数が存在する限り、自分の思い通りにはならない(実際は、自分という存在が最も厄介な変数なのだけれど)。

期待するから裏切られたと感じる。
期待なんてしなければ傷つくことなんてない。
勝手に期待しているのは自分だ。

確かに、理屈としてはそうなのかもしれない。

いつだって、勝手に期待しているのは自分だし、勝手な期待に一喜一憂しているのもまた自分だ。

けれど、それでも僕は期待してしまう。

落胆させられるほどの期待、「期待通りだ」と嬉しい気持ちにさせられる期待、「期待なんてしなければ」と痛感させる期待、これから先もたくさんあるのだろう。

それで良い。

期待して裏切られても、期待して傷ついても、「期待なんてしなければ」と思っても結局期待してしまうことも、全てを受け容れられる気がする。

「期待なんてするもんじゃない」と分かったうえで、これからもとびきりの期待をする。


日々心に浮かぶ何かを言葉にできなくても、後で振り返った時に「惰性で過ごしていた」と感じるような今を生きていたとしても、きっと、「自分さえ知らなかった未来に今自分はいる」といつかの未来で思えるはずだ。

僕は、昔も今も自分自身にそう期待してしまっている。

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