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〈紀行〉夜を旅する(横須賀編)

「千マイルブルース」収録作品

1話目は、「千マイルブルース」に収録されている紀行文のうちの「夜を旅する」です。こちらは横須賀編ですが、ほかに那須編もあります。プロローグ的なこの回では、大好きな横須賀を紹介しました。どうぞご一読を。


〈紀行〉夜を旅する(横須賀編)


 横須賀に住んでいる。
 もう二十五年だ。少し長過ぎる気もするが、この街が気に入っている。なにより「半島」に位置するというのが、いい。三方が海。つまり袋小路のどんづまり。忙しい世の流れは一瞥もよこさず通り過ぎ、気紛れで取り上げるマスコミや不動産屋の掃除機の先っぽだって奥までは届かない。だが、こちらからはいつだって打って出られる隠し砦。
 地形は単純だ。山が海に向かっている。だから坂と、迂回せずにくり貫いたトンネルと、谷戸 やとと呼ばれる谷あいが多い。つまり自然が豊富。俺の隠れ家など、海に五分、山に五分だ。いや、泳ぎもしなければ、ましてやハイキングなど絶対にしないが、この環境は悪くない。二日酔いが、海の風と山の空気ですぐに抜けるのだ。それでいて横須賀は、東京をからかいに行くのに一時間とかからぬ距離にある。最高のロケーションだ。
 しかし半島とは、どんづまり。ゆえに暮らす人間が多少違う。入り江に漂着物が流れ着くように、袋小路には漂流者が辿り着く。多くは段階を経た正統派だ。東京で失敗し、川崎で転び、横浜でつまずき、そうして横須賀に流れてくる。けれどここから先は、ない。だが、それがいい。背水ゆえにここで踏ん張るしかないと気づくのだ。諦念が覚悟に変わり、引きずっていた影がベリベリと立ち上がる。やるっきゃねえ、と。そんな奴らと付き合えるのも、この半島の魅力なのだ。
 とまあ、これほどまでに気に入っている我が街横須賀、そして三浦半島ではあるが、物足りなさを感じる時が、ある。もちろん、場所に不満がある訳ではない。原因は個人にある。たぶん、精神的なストレスや、感性のビタミン不足からくるものだろう。ともかく心が、微妙に小腹の空いた状態になるのだ。けれど処方箋がある。近場を走りまわるのだ。それでダメなら酒場を飲みまわる。このふたつでたいていの栄養が摂取でき、腹が膨れる。
 単純といえば単純。だがこの地ならではの、とてもよく効く薬膳だ。そして俺は、数日前からこの「空腹」を感じていた。
 半島に、ワルキューレを発進させた。

撮影 俺


 三浦半島。
 神奈川の南東に位置し、葉山、逗子、横須賀、三浦で構成されている。しかし俺の定義するところの三浦半島は、横須賀と三浦だけ。葉山も逗子も、どこか人種が違う。気取りがある。どこにでも作業着で訪ねてしまうような性質タチこそ、海と山に暮らす者にふさわしい。気取りはいらぬ。まあ、無神経と紙一重ではあるが。
 半島は、半分が島、ということでもある。当然ここにも、浮き島のような情緒や風情がちゃんとある。俺はまず三崎の港に向かった。
 いくつかの起伏ののち緩やかな坂を下ると、すぐに潮の香りと海鳥が迎えてくれた。係留された漁船はおとなしくその時を待ち、波止場で佇む老人は、潮焼けした顔をもっと遠くの時に向けていた。船員相手であろう小さなバーのアクリルのドアが開く。勝気そうなママが打ち水を始め、その脇を銛のような鋭い目をした少年が通り過ぎる。コンビニに入り店員に次の大潮を尋ねてみると、ちゃんと日にちが返ってくる。これならば、通りを歩く誰に訊いても、明日の海の具合がわかるだろう。
 島言葉ともいえる三崎弁を聞きながら、俺は走り出した。気紛れで小さな坂にハンドルを向ける。そして駆け上がったその途端だ。目の前に広々とした畑が現れ、いつ隆起したのか高い山々に囲まれてしまった。潮の香りなど微塵もなく、土の匂いが見渡す限りに広がっている。この廻り舞台のような場面転換は、いつ味わっても新鮮だ。俺は農道にギヤを落とした。
 土焼けした顔の老夫婦が軽トラの脇でお茶を飲み、あぜ道で山鳥を追う子どもは頬が赤い。バイクを停めた足元では、古い野仏が静かにほほ笑んでいた。誰が供えたのか名も知らぬ白い花。入り組んだ道をアミダクジのように走り、大きな通りに出る。すると、路肩で野菜を売る深いシワの老婆。けれどパイプイスの上で楽しそうな夢を見ている。俺は笑って加速をくれた。
 なんと面白い半島ではないか。漁師町の海に生きる逞しさと、農村の山に寄り添うのどかさが、ほとんど距離を置かずに同居しているのだ。ほんの、ほんの坂道ひとつ。三浦半島はひと巡りで二度おいしい。どうりで走りまわると腹が膨れるワケだ。

撮影 俺


 
 海岸線に戻り、半島の輪郭を加速する。
 いい感じだ。相模湾の岩場が、まるでヤスリのようにこちらの内面を均してくれる。東京湾に糸を垂らす釣人は、釣果より空の高さにニヤついていた。様々な船が、まるで幹線道路のように往来するのは浦賀水道だ。そして、浦賀。ドックの巨大クレーンに今日も見下ろされる。
 ここは、錆。あちこちの錆がとても美しく、そしてよく似合う。歴史の舞台に無理やり引っ張り出された戸惑いが、今も肌に伝わってくる。朽ちて消えることは歴史に許されず、かといってステンレスになるほどの厚顔無恥ではない。分を知っている。だから錆としてそっと時を進める。やはり浦賀は美しい。
 ひとしきり走り終え夕暮れを望む。富士の山に陽が落ちてゆく。しかしなぜだろう、珍しくまだ小腹が空いている。あとは液体で満たすか。
 俺はバイクを家に休ませ、ドブ板通りに足を運んだ。

撮影 俺


 

 ドブ板通り。
 横須賀、米海軍基地の正門前、国道からひとつ入った中通りの通称だ。その名は昔、道に大きな排水路があり、渡るのに板を被せていたことに由来する。
 ともかくこの通りは横須賀の象徴だ。かつては「負の」と冠がついたらしいが、今そんな言い方をする奴はいない。米兵相手のヤバい歓楽街は、今や日本人の坊ちゃん嬢ちゃんで賑わう健全な通りになってしまったのだ。外国人相手のバーや土産物屋などは残っているものの、メインの客は日本人である。
 バカ騒ぎ、もといボロ儲け、いや活況のピークは近年だと二度。1950年から53年と、1960年から75年の間。そう、朝鮮戦争とベトナム戦争の特需。
 生きているうちに使おうと、米兵のドル紙幣が宙を舞い、飲み屋のオヤジの足元に踏み固められた。明日のわからぬやるせない思いは街のそこここで暴発し、とばっちりはすべて日本人が被った。しかしその代償として街は潤う。だが最強の第七艦隊でさえ敵わぬ強者が現れ、彼らを次第に駆逐した。世界同時不況だ。
 物価の高騰と世界的米ドル不安視から、通りはめっきり静かになる。俺が移り住んだのはこの頃だ。すると米兵は、違う喚き声を上げだした。
「オレたちが日本を共産圏から護っているんだ。それなのになんなんだ、このビールの値段は?」
 バドとマクドでできた奴らは、用心棒代だと言わんばかりに悪さを始めた。空母ミッドウェイの連中は特にひどかった。停めてある車をひっくり返し、交通標識のポールをグニャリと曲げる。民家の庭先でパーティーを始め、公園の暗がりでひ弱な日本人を待ち伏せる。そのほとんどは、事件として新聞に載ることはなかった。
 もちろん、連中にもいい奴はいた。約束を守るまともな水兵にも何人か出会った。だがそういう奴ほど、なぜか突然姿を消した。愛想を尽かされたのが俺か軍隊なのかは、わからない。
 しかし、だ。ともかくこの、ドブ板通りは俺の肌に合った。それはやはり、ここに吹き溜まり特有の匂いと風を感じたからだろう。そして同じ嗅覚を持つ奴が夜な夜な集うのがまた嬉しい。日本中から。いや世界中から。
 さて、いつもの店から始めるか。
 

 杯が進む。
 俺がバーで飲むのは決まっている。トリスのハイボールだ。トリスとゴールデンバットさえあれば、誰にだって優しくなれる。だが今日は、いつもより酔いのまわりが遅い。もしかして、こっちの薬も効かないのか? だとしたらなんなのだ、この空腹感に似た欠落感は? 女か? それは、ある。情けないが、以前別れた女がいまだに忘れられない。だがそれはベツバラだ。今欲しいのはもっとこう、掴めないなにかだ。白い肌でも柔らかな吐息でもなく、むしろその対極にあるような。そう、黒くて硬くて、怖いくらいに広がりがあって……。
 わからん。もっと薬を頼もう。
 
 次々と、馴染みの連中が顔を出す。同じストーンズ好きの、モヒカンのジョーさんも現れた。
 アルバム『ブラック・アンド・ブルー』が店内にかかる。ローリング・ストーンズか。転がる石。グラスの氷が音をたてた。転がる、石……。そういえば、旅に出ていない。もしかして今の俺に足りていないのは……。いや、違うか。

撮影 俺


 でも、旅な……。
 俺はハイボールのスクリーンに、とっておきの旅を映し出してみた。途端にコーラでも注いだようにグラスが黒ずんでゆく。これは、北海道の真夜中の原野だ。苫小牧にフェリーで着き、そのまま夜通し走ったのだ。常夜灯も対向車もなく、ヘッドライトがくり貫いた世界がこの世のすべてだった。あの朝まで続いた長いトンネルの中で、明らかになにかが脳内に分泌され、覚醒した。あれは不思議な旅だった……。グラスに色が戻り、そしてまた暗くなる。これは東北地方の夜のコンビニ。泊まる所がなく思案していたら、地元のバイク好きが声をかけてきたのだ。そしてそいつの家で宴会となり、結局朝まで飲み明かし、夜にまた出発したのだ。次は……。そう、どこだかの夜の県道。パンクして途方にくれていたら、自衛隊のトラックが止まって助けてくれたのだ……。今度は、東海のキャンプ場の夜の台風。次は東名高速での、夜明けまで続いたカーチェイス……。
 おかしい。なぜもこう、夜にまつわる旅ばかりなのだ? 結果的に思い出にはなったが、どれも不測の事態だった。つまりそれが目的ではない。こう見えても、俺はリスキーな選択肢は極力避ける。こんな街で暮らしてきたからか、「危機」にはもとても敏感だ。夜の旅など、もってのほかだ。
 しかし、楽しかった。面白かった。ということは、もしかするとこれ、じつは俺に「向き」なのか? まさか。ペンネームの「深夜」だって単なる当て字で、本来は朝型人間だ。でもあり得るな。だって今、思い出してワクワクしていたろう。だったらいっそ、真正面から向き合ってみたら……。
 ああ、なにかストンと腑に落ちた。これだったのか。
「なにが可笑しいんスか? 深夜さん」
 ふと気がつくと、俺は何軒目かの馴染みのバーで、ハイボールにニヤついていた。若いマスターが、眠たそうな目で俺を訝っている。俺は言った。
「面白いことを思いついたんだ。だけど秘密だ。そう、深夜の秘め事」
「はあ。でも、もう始発が出ますよ」
 俺は驚いて窓の外を見た。いつの間にか辺りに青みがさしている。朝まだきだ。まあいい。さて、帰って漆黒の夢でも見るか。
 

 なんとも、深い眠りだった。おかげで頭がぼやけていたが、二杯目のコーヒーで、すべての焦点が合った。そう、俺は今から旅に出る。俺は早速旅支度に取りかかった。そして想う。これから始まるであろう夜の旅を。夜にしか見られぬもの、夜だけにしか聴けぬ音、夜にのみ会える輩、夜だから聞ける話……。
 どうだ、正面に据えると、なんとも楽しく広がるではないか。俺は心躍らせながら荷物をまとめ、ドアを開けた。出発は日没、と思っていたが、外はもう、とっぷりと、夜。笑いがこみ上げる。
 さて、旅立つとするか。夜に。

撮影 俺



初出 「アウトライダー」(立風書房) 2004年6月号

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