見出し画像

違うよ、もっと楽しいことを見つけたの

中学生になるまでは健康優良児みたいな体をしていたくせに、中学生から徐々に身体が弱くなってしまった。

最初は精神的なものからくる身体の症状だと思っていたから、きちんと病名を持った先天性だと言われて驚いた。

不思議なことに、身体の症状が顕著に現れる日は精神状態は安定していたように思う。




次第に、学校には好きなときにしか行かなくなった。


いじめられていたわけでもないし授業についていけないわけでもなかった。勉強は好きな方だった。ただ嫌だった。ぜんぶが嫌になってしまった。

親に対する罪悪感からか、中学時代は給食だけは食べに行ってすぐ帰ることもあった。

両親は学校に行きなさいとか勉強しなさいとか、親が当たり前のように言う言葉を口にしなかった。

何故だったかは 未だにわからない。ただ仕事が忙しくて構っていられなかったのかもしれないし、親なりに私の気持ちに少しでも寄り添っていたのかもしれない。当時を考えたら後者は8割願望みたいなものか。




仲の良い友人からは「授業中に廊下から聞こえる足音で、あ、やっと来たってわかるよ」と言われてなんだかくすぐったい気持ちになった。

結局ずっと教室にいることに耐えられず、保健室で心地良い風を浴びて眠ることもたくさんあった。

うるさい人たちが保健室にくるとイヤホンで耳を塞いだ。雑音や人の声が嫌いだった。でもなぜか、窓から遠くに聞こえる校庭で体育の授業を受ける生徒の声は好きだった。

何を話しているのかすらわからないけれど、無駄にわちゃわちゃしたその声や笛の音は私を深い睡眠に誘った。たまに、友人が保健室に来て「次の授業も出ないの?」と聞いてくれたりした。

大好きな先生がいた。その先生の授業だけは調子が悪くても必ず出た。私に短歌を教えてくれたのはその先生だ。

ある日廊下で引き留められ、「気に入ると思うわ」と笑って一冊の本を渡された。

加藤千恵さんの「ハッピー⭐︎アイスクリーム」という本。表紙を見て「子どもっぽいですね」と言ったあの頃の自分を思い切りぶん殴ってやりたい。私の人生を左右する一冊になるというのに。

ほんとうに、どこまでも捻くれていた。

けれどくすくすと楽しそうに笑って、先生は「いいから」とその本を私の手に握らせて去っていった。

家に帰ったらいつもはすぐにPCを開いていた。PCの中にだけ居場所があると思っていた。けれどその日はその本をすぐに開いた。



付箋が貼ってあるページに気づき、すべてのページを飛ばしてそのページを開いた。


まっピンクのカバンを持って走ってる楽しい方があたしの道だ
ハッピー⭐︎アイスクリーム/加藤千恵
真実やそうじゃないことなんだっていいから君と話がしたい
ハッピー⭐︎アイスクリーム/加藤千恵
夕立が街ごと洗い流すのをどこかで待っていたのだと思う
ハッピー⭐︎アイスクリーム/加藤千恵
めちゃくちゃに空が晴れてる たった今爆発すればいいのに全部
ハッピー⭐︎アイスクリーム/加藤千恵


5.7.5.7.7
という限られた31という文字数で、この言葉が書かれていた。

短歌。

私は短歌に、その日ちゃんと出会った。

付箋が剥がれてしまうのではないかと思うくらいに、涙が溢れて仕方なかった。31文字が滲んで見えなくなっていた。先生の笑った顔を思い出して、かわいくないことを言ってしまった自分を罵った。

俳句や短歌は知っていたけれど、現代短歌と呼ばれるものをそれをきっかけに知り、先生の策略通り、みるみるうちに短歌の、言葉の世界にのめりこんだ。

小さい頃から、本を読むのは好きだった。文字を書くのも好きだった。

小学生になる前からお兄ちゃんたちの教科書をランドセルから勝手に取って読んで、物語の世界に魅了された。

私の知らない世界が、たくさんあるのだと、嬉しくて楽しくて仕方なかった。唯一の逃げ道だった。許された現実逃避だったのだと思う。

教科書を読んでいて知らない漢字や言葉があれば両親やお兄ちゃんに聞いた。

けれど、私にとって言葉はあくまで、見るもの、感じるもの、取り入れるものだった。


だから、17歳の少女が詠んだというその短歌を見たときに、言葉にとの向き合い方がすべてが覆されると同時に胸から湧き上がる、暗い底から抜け出すような気持ちを自分でもひしひしと感じた。


次の日すぐに先生の元へ向かった。私が何か言う前に「もっといろんな短歌があるのよ」と言い、自分が持っている本を私に渡した。

私の表情を見てすべてを察してくれたんだろうか。たくさん泣いたから目が腫れていて泣いたことを勘付かれてしまわないだろうか。とか、子供ながらに羞恥心を持った。

泣きたくない。もう大人の前では絶対に。

そう決めていた私にとって、泣いた姿を見せることや想像させることは屈辱だった。

先生は何も言わずにそれから接し方も変えずに、ただずっと短歌にのめり込んでいく私を見ていた。授業中が終わると先生を引き留めて

「おすすめの本はありますか?」と聞いて付き纏うこともあった。友人は私が学校にくる頻度が増えて

「PCの世界は飽きた?」と聞いてきた。なんだかその質問をする友人がにこにこしていて可愛かったから、つられて私も笑って言った。

違うよ。

もっと楽しいことを見つけたの。

PCの、画面越しの世界にずっと守られてきたのは事実だった。短歌にハマったことをネットで仲良くなった友人にもたくさん話したし、何より勉強はその人たちに聞いて頼りにしていた。


授業中は、教師に何度も机を蹴られるほど、ほんとうに寝てばかりだった。

けれど馬鹿にされるのはどうしても嫌だから成績は絶対に落としたくはなかった。損はしないことはわかっていたから勉強だけはしていた。

幸いネットの中には、年上の人も年下の人もたくさんいた。

一日中通話を繋いで大学生に勉強を教わったこともあった。学校の授業なんかよりもずっと、わかりやすくて楽しくて飽きなかった。

テレビ通話や写真で問題用紙を見せると、回答や解説を文字と声で返してくれた年齢様々な友人たちには、今でも感謝している(いまも関わりがある人もいる)。

アプリを介して出会うのが当たり前となった今の時代とは違い、私が学生の頃は、ネット住民とか揶揄される風潮があって、顔も知らない人と親しくするのは良くないとはっきり言われていた。ほんとうに生き苦しい。


私にとっては、心底ありがたい場所だったし、その時間があったおかげで模試や憂鬱なテスト期間もやってのけれた。

もちろんネット社会は、危険なこともたくさんあるけれどね。小学6年でネットにのめり込んだ私にそれを教えてくれたかわいくて親切な人がいて、やっぱりその人もネットの中の人だったから、わたしはだいすき。


(いやー、ほんとうに、その節はありがとうみんな!(誰も読んでいない))


でも学校へ行く回数が増えたのは先生と話がしたかったし、短歌を詠みたかったから。テストの問題用紙に短歌を書いてしまって、回収することを忘れていた私は焦った。

けれど、その拙い短歌に、花丸がつけられた問題用紙が後日先生から返されて、柄にもなく心が浮き立った。先生に褒められたかった。たくさん、褒められたかった。

だから学校へいく回数も増やし、席替えでは最前列の席を選び続けた。それでもやっぱり寝てしまうのはやめられなくて教師には机を蹴られた。(それでも私は寝続けた。なんせすごく眠いんだから!)

机を蹴る教師について、「あの先生腹が立ちます」と先生に言ったら、「最高点をとってみたら〜?」と踊るような笑い声で言われて、「うう、もっと慰めてよ」とか言ったけど、

先生が好きすぎて、次のテストでその教師の科目で満点をとってやった。どうせやるなら他の科目も最高点を、と思い、数学を除くすべての科目で最高得点をとってやった。(数学は私の友人にとられたぜ、チクショー!)

学年一位にこだわりがあったわけではなかったし、競争心もプライドもプレッシャーも微塵もなかった。良い大学を目指していたわけでもなかった。

数字はどうでも良かった。(辛辣ですが今は数字も大事ですかなり)

ただ少しだけ、先生に「また、一位だったのねえ」と言われるのが嬉しかったんだと思う。


朝から毎日毎日大学のパンフレットを机にもってくる担任に「ここへは行かない」と言っても、進路指導室に呼び出されては、何度も興味がない大学の興味がない学部の話をされた。

先生は担任ではなかったから私に何かを強制することはなく、でもいくつか「ここはどうかしら?」と資料を集めてすすめてくれたりした。


そんな日々の中で、進路指導でまたすべてが嫌になってしまって、何を血迷ったか、ある日金髪にして登校してみた。

横断歩道で仁王立ちしている担任に黒染めスプレーを大量に噴射された。

バキバキになった髪を触って「女は髪が命なのに」と言ったら若い担任は呆れてため息をついていた。「ほんとうに、頼むよ」と言われて、少し胸がちくっと痛んだりもした。ほんとに少しだけれど。


遠くに先生が見えて「おい」と叫ぶ担任を無視して走っていくと、小声で「素敵ね。でも今は言うことを聞いておかないと損損」と言った。ほんとうにおかしな大人だと思った。

手に持った教科書でコツンと私の頭を触ったのは、担任から見て指導しているように見える演技だったのだろう。先生さすが、やり手だぜ。




担任とは何度も口喧嘩した(するな)けれど、なぜか毎日のようにメンヘラ彼女の扱いが難しいという話を聞かされていた。


「朝から重たいなあ」と言いながらも少し楽しんでた。進路の話をしてこないときの担任は、なんかすごく好きだったな、なぜだろう。人間として関われていたからかな。

卒業式の日に「教師と生徒ではなくて、友達だったらもっとうまくやれていたと思う」と言ったら「俺もそう思うよ」と握手を求められ、照れ臭かったけれど素直に「ありがとうございました」と握手を返した。

「メンヘラと結婚したら頑張ってねー!」と友人と叫んで走っていったのはなんかTHE青春ぽい。

私みたいな生徒の担任をしてくれてありがとうございました。(結局大学も、すべてつっぱねて自分で決めていきました。後悔は一切なし!)




大人になってから先生と会った。

見違えるほど痩せてしまっていたけれど「ダイエットよ」と笑っていたのを馬鹿正直に信じていた。

先生は、おしゃれだったから、アクセサリーも服装も靴も、抜かりなかった。「体型維持は大事でしょう?」と言われたら説得力があるなんてものじゃなかった。

その日はすごく楽しくて、大学はすごく自由で楽しい、心理学がメインだけれど、文学部の授業にも出ていると言ったら「短歌は詠んでいる?」と聞かれて胸を張って「もちろんです」と答えた。

その時、初めて先生の過去の恋愛話や当時の私たちに対する思いを聞いた。「子どもがいないから、みんなが子どもみたいだったわ」と言っていたけれど、

違った。

先生は子どもができなかった。作れなかったんだ。

先生が亡くなったという知らせを受けたときは、心臓が捻り潰されて口から血を吐きそうなくらい声が死んだ。祖母に続いて、私が好きな大人はどうしてみんな早く去ってしまうのだろう。居なくなってしまうのだろう。若すぎる、若すぎる、若すぎる。早すぎる。


こんなに早く亡くなって良い人ではない。そう思って泣いたけれど、それでもやっぱり、

家族だけでの葬儀、と聞いた時は最後まで先生らしいなと思った。かっこいいなあ。最後の最後までかっこいい大人だったなあ。


私に短歌という素晴らしい世界を与えてくれた先生に、もっと素直にありがとうを何度も伝えられていたらと、未だに思ってしまう。

大人になった今だから詠める短歌も見てほしかった、と、思ってしまう。

けれど、そんなことを言っていたらまた頭をコツンとされてしまいそうだから、泣いたのはあの日あの土砂降りの日の一度きり。


もう2度と会えないなんて不思議だね 誰かの悪い冗談みたい
ハッピー⭐︎アイスクリーム/加藤千恵

亡くなったあとに、ハッピーアイスクリームのこの短歌を口に出したら、ほんとうに悪い冗談みたいで、自然と口角が上がった。

目を閉じると先生の声や話し方、笑った顔や少し怒った顔や困った顔が映し出される。




失うことでしか得られない何かがあることは知っているけれど、これ以上何も失いたくないなあと甘えたことも考えてしまう。

けれどまだまだ何度だってやってくるんだろう、予想もしなかったお別れや、大事な人を失う瞬間は。

待って、待って、まだ待って、

と追いかけていたくなるようなものばかりでうんざりしてしまうけれど、だからこそ手が届くうちに、声が出る限り叫び続けたい。

好きな人に好きだと、怖いものは怖いと、嫌なものは嫌だと、やりたいことがあると。

今自分のいる場所って、縦軸横軸のどのあたりなんだろう。昔想像していた「いつか」とかいまの私が居る「今」とかどの辺りかも分からないのに、人生や自分を判断するなんて、少し馬鹿げている。

どのあたりでもいいや、できるだけ、楽しい道を選んでいきたい。

飴玉を決別みたいに噛み砕く。15のわたしがしつこく溶け出す
※私が当時(高校時代)に詠んだ短歌です。
インクなどとうに切れてるペンシルで何度好きだと書いたのだろう
※私が当時(高校時代)に詠んだ短歌です。


この記事が参加している募集

スキしてみて

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?