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耳を傾ける自由

自分はどちらかというと、ぼんやり人の話を聞いていたい人間だと思う。
話したい、という欲求に勝るのが、聞く面白みとでもいうのか。

休日の昼どき、珍しい場所で外食などをすると、さっそく周囲の話し声が耳に入ってくる。

もちろん一人で食べに入っている。注文さえ済めば、ほかに優先することがない。


周りのお客の中で特に目立つのが、大きな声が途切れない女性二人組。
彼女たちの会話を聞く中で、気付いたことがいくつかある。

それは、どちらかが話し役で、一方が聞き役に徹底しているということ。
そしてその役割分担がそのまま、二人の人間関係を反映しているらしいということ。

誰と食事をするか決まった段階で、話し役と聞き役、自分がどちらの役割に回るのかが決まるのだ。

話したい側は、誰でもいいから、兎に角、聞いてくれる人に話してしまいたいことがあって、話し続ける。聞く側は、相手が話したいことを話せるよう、真剣な相槌でもてなすだけで、賛成や同調以外の助言も控え、新しい情報は持ち込まない。聴いているとその徹底ぶりに脱帽する。


それぞれの立場を考えてみる。

話す側の人間には、少なくとも感情の吐露、開放という心地よさがある。
だが、聞く側はどうだろう。

私のような第三者が気楽に、他人の話を脇で聞いているのとは違う。

あちらはこちらを知らず、こちらも聞こえてくる会話や、視界に入る情報以外で相手を判断する材料を持たない、匿名希望の第三者。きちんと聴いている必要も、相槌もうつ必要がない。

だがあちらは、何度目か知らない同じ話を、今はじめて聞いたように驚いて見せたり、深刻な顔で頷いてみたり、たとえ思うことがあっても容易には口に出せない。ぼんやりとしていては「話を聴いていない」などと、思われてしまうだろう。

話し手に注意を向け、親身な姿勢を維持しなければならない。曰く言い難いが、話し手と聞き手の間に力関係が発生しているのだ。

と、そんなことを考えて、一時思考停止。

頭の中に蓄積された、気になるテーマ一覧の一つが、チカチカと光りだす。

もしかしてSNSが広まった理由は、こういう制約だらけの人間関係の抜け道なんじゃないだろうか。

互いに名前と顔を知らない匿名の相手、たとえ個人を特定する情報を公開していたとしても、関係性を一から新しく構築できる相手と繋がることができるとき、何らかの開放感を持った人間関係、というものを経験することができる。


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