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言葉あれこれ #4

 お盆というのは、お墓参りに行ったり普段会わない親戚に会うなど「血族」について考える機会が増える時節だ。
 
 創作物の中で「血統」が意味をなすもの、これまた多い。
 歴史小説は当然ながら、世界のあらゆる文学も、「血」に縛られていると言ってもいいくらいだ。文学がそうであるなら、当然、この世というものは「血」で出来上がっているということなのだろう。

 狭いところでは、親子きょうだいの関係。
 広くは、社会の中での自分の存在の正統性の証明だったりする。

 今回の話は、言葉と血の話。

 先日、町田康の『口訳 古事記』を読んだ。町田氏の『ギケイキ』3巻を待ちわびているうちに、どういうわけか『古事記』が出てしまったのだ。アーコリャコリャ。

 『古事記』は、まさに「血統」の話である。
 それ以上でもそれ以下でもない。皇族がいかにして日本を手中に収め、いかに天と神の正当な後継者たる血筋であるかを示しまくったものだ。なにしろ神様の子孫であるからして、何人なんぴとたりともそこに異を唱えることはできない。

 重要なのはそれを「言葉」にして伝えたことだ。
 言葉にして、超!記憶術という本を書いたら大ベストセラーであろうという人間レコーダーのような稗田阿礼ひえだのあれのような人が口伝し、それを文字にし、とにかくひたすら、繰り返し繰り返し歴代に渡って伝えた、ということが肝心な点だ。

 聖書には「はじめにことばありき」と記されているらしいが、まさに「言葉がこの世を規定する」のである。

 ブッダやキリストなどの思想家は当時すでに文字があったにもかかわらず、文字に書き起こしたり経典の編纂をするのを良しとせず、口伝にこだわった。
 自分の中ではそれが長い間疑問だったのだが、そういえば文字を読み書きできるというのは特権階級の人間だけで、多くの人々は読み書きができなかったはずだとはたと思った。そう思うと、広く一般に流布するには口伝が最も相応しい手段だったのだろうと合点がいく。
 そして文字にしたとたん、それが特権階級の大義名分にされたり利用される危険があることは、歴史が証明している。
 賢き人はすべてわかっていたのだろうか、なんて思う。

 さて『古事記』。
 そこに記された血筋以外の人間は、そのありがたい言葉と文字によって「この一族は神様のご子孫じゃあ」と彼らに跪く。なぜ?と問うてはいけない。そこに疑問を持つと排除されるし、実際に公に疑問を表明した人々は排除されてきたから、当然今生きている我々は「神様のご子孫じゃあ」を信じたか信じたふりをした人々の末裔ということになる。

 世界中の歴史も似たり寄ったりだ。西欧はあっちこっちの王家がむちゃむちゃに交り合うカオスな世界だ。消えてしまった血筋もあるが「尊い血」は常に存在しているし、現代にも脈々と受け継がれている。
 インドはカーストが絶対の社会だ。インドのお金持ちの家のメイドは、今でもテーブルを拭く人と床を拭く人が別れているという。カースト外の不可触民はそもそも雇ってすらもらえないかもしれない。ブッダはカーストからの離脱を目指して仏教を興したのだが、残念ながらその「壁」「枠」は1000年経っても2000年経っても覆すことができなかった。強力な血の縛りだ。「その身分の家に生まれた」というだけで、人生がほぼ決まる。

 日本の歴史では、「正統」な血に滅ぼされた一族は逆族となり、たまに神様にしてくれるが第一線には絶対混ぜてくれない。とにかく「敵対した血を後世に残さない」ということに重点が置かれている。仲間か、仲間じゃないか。オキシトシンホルモンはそのように作用する。仲間になるなら支配者側に従属させ、仲間にならないなら滅ぼす。

 権力と財力に富むいくつかの「高貴」な血筋は歴史を常に支配してきた。特に日本には特別な「血」が存在する。歴史書には、濃いなら良し、とにかく細々とでもいい、捏造でもバレなきゃいい、ちょっとでも、ちょっとでも繋がっていたい!という涙ぐましい努力が記されている。誰の血統か。誰の血を引いているか。それが人間を振り回す。とにかくセンゾがどこのだれかがわからない、ではだめなのだ。

 血のつながりのある人物に「家」「名」を継がせるために、女性を駒のように動かしてあっちこっちに嫁がせ、子を産ませ、離縁させまた嫁がせ、男性は男性で、家と名を守るために命なんていつも風前の灯。情勢次第で養子や人質に出されたり戦で死んだり暗殺されたり出家させられたりと、男も女も「血」のせいで大変な思いをする。そうして必死に血の正統性を維持管理することで、「血筋」には権力や財力が手に入る、ともいえる。

 これを「血統」だけに絞り込んで、家を排除したのが漫画『ジョジョの奇妙な冒険』だ。ジョジョの魅力はその血統にある。シリーズ100巻越え、全世界累計発行部数1億2000万部突破は伊達ではないのだ。人間が根源的に求める「血統」の物語なのだから。まるである種の神話のようなものだ。

 創作なのでジョースター(とディオ)の血統にどうしても繋がりたい人なんてスピードワゴン財団以外にないだろうし、もちろん現実にはいないだろう。でもそういう「ほぼ幻」みたいな「血脈」に実は現実の人間もすがりついている。

 ここで「ほぼ幻」と言って「血」は現実の話だから幻ではないだろうと思うかもしれない。実際、身元不明者を特定したりするのは近親者のDNAだ。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を思いだせば遺伝子は乗り物なのだから特定の遺伝子が遠い先祖から遠い子孫まで運ばれていくものだというイメージを持っている人がいるかもしれない。
 
 古生物学者の更科功氏によると「血」つまり「DNA(遺伝子)」というものは10代もしないうちに雲散霧消するらしい。
 先祖の数を父母が2人、祖父母が4人、と単純に計算していくと20代前までで100万人を突破(近親婚などがないと仮定して)。しかしDNAを受け継げるのは100万人のうち1500人足らずしかおらず、受け継ぐ確率は0.1%になるそうだ。

 更科氏は『進化論はいかに進化したか』の中で、「日本人のDNAは2%くらいネアンデルタール人から受け継いでいる。それは高僧祖母から受け継いだ2%のDNAと同じくらいの近親度だ。そしてそのネアンデルタール人の2%も、たったひとりのネアンデルタール人のものではなく、たくさんのネアンデルタール人のDNAを足し合わせてのものだ」と言っている。

 ミトコンドリアやY染色体というDNAの一部をたどって先祖に遡る方法もある。かつては「ミトコンドリア・イブ」という人類共通の母がいるという話が席巻したことがあったが、これはそんな単純な話ではないらしい。「人類のDNAの一部にはそれぞれ共通祖先がいる」という話のようだ。

 とはいえ、人類皆きょうだい、という先人の言葉は嘘じゃないような気がしてくる。なんとも奇妙な、不思議な話だ。

 三親等くらいまでの近親者は別として、たとえ高貴な血のDNAでもその「祖」に遡れば、日本国中の人の近親度はほぼ同じようなものだということになる。そう考えると、私たちが大事にしている「血」というのは、遺伝子ではなく「家」「名」なのだろう。そもそも昔はDNAなんて調べようがなかったのだから、系図による親子のつながりを言葉で書き連ねることにより、「血」のもつパワーは維持強化されたのだ。

 現在、徳川家の子孫は2023年1月に徳川宗家の家督を継いだ徳川家広さんで19代目だ。おそらく相当数の子孫がいるであろう徳川家。慶喜の養子となった家達氏が16代目となり、家督が相続されてきたらしい。現代社会では相続税やらなんやらで財産の維持が大変過ぎて18代目で財団を作ったとのこと。松平の時代に「源氏に繋がる家系図」を書き残した家康。真偽がどうでもとにかく書き残したことが重要だ。大政奉還、DNAなんのその、家と名は続いていく。

 血は言葉によって強化される。
 言葉は言霊。
 言祝ことほぎにもなり、呪いにもなる。
 
 どちらにせよ、最初に誰かが言葉によって規定したことを覆すことは並大抵のことではなさそうだし、それを利用する人も絶えない、ということなのだと思う。

 私は言葉を交わした記憶があるのは祖父母くらいで、曾祖父母を直接は知らない。なんとなく系統の似ているような顔立ちを父方にも、母方にも感じながら、結局はお墓の前で話しかけるのは幼いころに話した記憶のある祖父母だけだ。

 科学に裏打ちされたDNAはずいぶん確かなものだと思っていたが、実のところそれほど確かなものではないと知って、むしろ確かなものは言葉なのではないかと言う気がしている。近親者の体験を、稗田阿礼のように記憶し口伝していくことこそが、正しい血の継承になるのかもしれない。

 おじいちゃん、おばあちゃんとは、たくさん話をした方がいい。
 祖父母の立場なら、何か書き残して置くといいかもしれない。
 
 高貴な血筋にはその時話し伝えることが膨大にある、ということなのだろう。「まず『古事記』でも読みなさい」と言いたくなるほど。