見出し画像

現代音楽の演奏会と最近聴いている音楽

たぶん、調子が良くはない。二月あたりの喘息の症状はすっかりなりをひそめたが、安定のだるさと眠気と疲労感が度々訪れる。そして、たまに、元気。すっごく元気なときには外に出て、何かを見聞きしたり、誰かと時間を共にしたりしているから、そんなときには文章を書かない。だから、そうではないとき、生きているうちの大部分である低調なときに綴るのが文章だから、いつだって文章も低調。低めアンダーなテイスト。苦し紛れの文字の集合。

連日現代音楽の演奏会に行ってきた。「コンサートプラン・クセジュ」の公演である。コンサートプラン・クセジュは、作曲家の佐原詩音氏の企画・プロデュースによる演奏会企画である。現代音楽、それも初演を中心に据えた演奏会で、新進気鋭の作曲家の作品を、第一線の演奏家が演奏するという意欲的なプログラムである。私自身は、2020年12月の初回公演にも立ち会うことができ、それから年に一回は演奏会に訪れている。作曲家も演奏家も多種多様なバックグラウンドを持つが、東京藝大を始めとする一流の教育機関を経て、様々なコンクールで入賞している方ばかりである。日本音楽コンクール好きの私としては、その入賞者が多数参加しているのも注目ポイントである。学歴や賞歴が全てではない。しかし、それが一つの目安として機能しているのもまた、日本のクラシック音楽界の現状である。

現代音楽といっても、20世紀以降に作られた音楽全体を指すそれではなく、クラシック音楽の文脈の中で作られてきた、20世紀以降に開発された楽器や奏法、表現を含むような音楽をおおざっぱに表す、いわゆる「現代的な響き」という意味のそれに近いものである。それもまた、その多くは古典であり、使い古されたものである。その中でも、作曲家は、そして演奏者は何をしているのか。何をしていくのか。そんな問いは、あらゆる創造的な営みに身を寄せる者たちの課題である。まさにそのようなテーマにも近いものとして、今回取り上げられた標題が「オマージュとヒストリエ」である。

特に印象に残ったのが、久保哲朗氏の「雲と鳥2(に)」である。コンサートプラン・クセジュの第一回公演から参加されている作曲家だが、日本音楽コンクールで第一位の受賞歴もある大物である。本人はいたって素朴な方に見えるが、作風はとても魅力的だ。演奏は鈴木舞氏のバイオリンと斉藤一也氏のピアノである。両名ともまごうことなき一流の演奏家だ。演奏家の魅力は、基本的には古典によって際立つ。何十、何百という演奏家たちが積み上げてきた器に支えられながら、自分の表現を自在に発揮する。それが古典の強みである。多くの解釈と思索を経て洗練された楽譜だからこそ、発揮できる表現がある。逆にいうと、初演の作品はまだまだその解釈も試作も実践も少ないから、できる表現の幅は圧倒的に少ない。下ごしらえが全く違う。そんな中で、今回の「雲と鳥2」は初演だったが、とても心地よい響きを聞かせてくれた。初演というのは、なかなかこうはいかない。それは間違いなく、鈴木舞氏と斉藤一也氏の技量と思索あってのことだが、やはり、作曲家の力量を感じさせる。現代音楽は古典的な音楽と比べて、評価ははっきりしている。それが何かしらの心を動かすかどうかは、知識や背景ではなく、その音のみに委ねられる。私はこの初演を、とても好意的に捉えた。とても、美しいと思った。

美しいという感覚は、実はとても難しいものである。それは時に、他の描写によって代替可能である。それでも、現代音楽に親しんだ者たちは、「美しい」としか表現できない何者かに触れる機会が多いんじゃないだろうか。古語では、心動かされることを「あはれ」と呼んだ。それはときに、「情趣がある」「美しい」「哀しい」などと訳されるが、それらの集合の重なったところにある共通項に、「あはれ」の芯が隠されている。それぞれの言葉では受けとめきれないものを、「あはれ」はまだ掬い取っていたのである。その言葉を失った現代では、もはやその感覚を取り戻すことは不可能だろうが。

打楽器や吹奏楽に親しんできた私にとって、現代音楽は最も親しみのある音楽ジャンルの一つである。安定したコードによって刻まれる音楽よりも、音色美に特化した空間芸術としての音楽に親しんできた。だから、編集を前提とした音楽というのも、つい最近まで思いもよらなかった。素材としての実験音楽ならともかく。だから未だに、調性され、整えられた音楽にはあまり魅力を感じない。再現音楽の血が流れている自分としては、そこに音楽の美を見出すことがなかなか難しいのかもしれない。何より、そこに空間も観客もない音楽を想定できないのだ。

そんな自分が最近惹かれている音楽が二つある。一つは、ビル・エヴァンスである。ジャズ・ピアノを聞き流すことはあったが、特定の演奏家を集中して聴くことはあまりなかった。高校の同級生がキース・ジャレットが好きで、彼の演奏するCD演奏の「枯葉」のドラムパートをコピーしてやってくれと言われて断ったけれど、渡されたCDは聴いたような気がする。あとは、何かの文学でセロニアス・モンクが出てきたような気がするくらいだ。村上春樹かな。とはいえ、村上春樹もそれほど多く読んでいるわけではなく、最後まで読んだのは「風の歌を聴け」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」くらいだったと思うから、そのへんもあやしいものだ。いずれにせよ、トランペットにせよ、サックスにせよ、いろんな演奏を聴く機会はあったけれども、特に一人の演奏家を集中して聴くことはなかった。

そんな中、最近ポッドキャストを聴くのに少し疲れてしまうときに、音楽を欲することがあった。中でも、なんとなくジャズピアノが最近の私の心象にマッチした。スポティファイで様々聴くうちに、特にビル・エヴァンスの演奏に心地よさを感じた。好奇心と安心感のバランスがちょうど良かった。あまりに心をどぎまぎさせても、あまりに退屈な進行でも、心は疲弊してしまう。なんとなく、ビル・エヴァンスの演奏が、そのあたりのバランスがちょうど良かったようである。なので、夜は彼の演奏を流し聴いている。ジャズは、思考的にも聴けるし、感覚的にも聴けるのが、とてもいい。クラシック音楽は、私の場合、やや思考的になりがちである。どこかで演奏家としての立場で聴いてしまう。聞き流すことは難しい。こてっこての現代音楽は感覚的に聴けるけれども、それはそれで感覚に集中してしまい、何もできなくなってしまう。その淡いを行き来できるのが、私にとってはジャズなのだ。中でも、ビル・エヴァンスの演奏、アプローチは、今の私にぴったりなようである。

最近私が惹かれる音楽の二つ目は、マーティン・ギャリックスである。ダンス・ミュージック自体にあまり興味はなかったのだが、何となく最近聞いてみたら、すごく良かった。これまた最近好きなコメディアンであるラランドの「EDM大喜利」で知ったくらいにEDMという用語すら馴染みがなかったし、一聴してうるさそうな感じばかりが際立ってしまうことが多かったのだが、彼の音楽はEDMと聞いてイメージしたものよりはとても多様で、とても美しいと思った。これもまた、どこか思考と感覚の淡いにいられるようで、とても心地が良かった。とてもシステマティックでありながらも、それでも生命力を失っていないのはなぜなのだろうか。そもそも小学生の頃に「魔法陣グルグル」の音楽からテクノに興味を持ち、それはミニマルミュージックへの親しみと通じるのも当然なのかもしれないが、その流れからEDMへの親和性も決して低くはないとみるべきだろう。

ということで、ビル・エヴァンスとマーティン・ギャリックスに助けられながら、なんとか生きている。有り難い。どうにも力が入らない毎日の中、それでも何とか動きたいと思う。それでもそれができない。せめてそこでラジオやポッドキャストで思考する機会を得たいと思うが、それもできないときに、彼らが助けてくれている。それは、夜の寝る前、そして朝の起きなければならない時、そんなときに活用している。意外かもしれないが、そのどちらもが、私を眠りにいざなう一方で、私に活力を与えて身体を起こしてくれる。EDMを聴いて眠くなるし、ジャズを聴いて目が覚めることもあるのだから、一般的には珍しいことかもしれない。しかしながら、今の私にとってはこれらのジャンルは沈静と活性の両面を持ち、その両方を私に与えてくれるのだ。

ところで、明日は久しぶりのリモート・スクーリングである。およそひと月ぶり。先月も今月もリポートがさっぱり進まない。飽きたというか、疲れたというか。ちょっと踏ん張れないでいる。スクーリングが一つの契機となればいいが。

演奏会を聴きながら、そろそろ作曲も再開したいなあ、こんな曲も作ってみたいなあともよぎったけれども、家に帰ったらそんな元気はない。そんなものである。かろうじて作文できたのだから、よしとしよう。作曲は楽しいのだが、エネルギーが満足に必要なのだ。

さて、そろそろ眠りに向けて準備していこうか。眠るのは、とても疲れる。疲労とけだるさに包まれて、概ね眠りは不快である。抜け出せない重たい沼に半身が埋まって動けない。多少は身体は動くけれども、大変に疲れるのだ。だから、眠る。飽きるまで眠る。もう飽きた。眠るのも、動けないのも。それでもそうするしかないのか。沼の底から聞こえてくる音楽だけが、身体を通して、水面を、すべっていく。

サポートしていただければ嬉しいです!