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「好きな理由」についての考察

「なぜ好きなのか」を聞いた時に、「理由」ではなく「それが何なのか」を答える人が多い。

例えば腕時計。立派な腕時計をつけている人になぜ好きになったのかを聞くと、「その時計を買った理由」ではなく「その時計が何なのか」を懇切丁寧に教えてくれることがよくある。

「○○という有名なメーカーが作っていて」とか、「○○というデザイナーが設計していて」とか。「○○賞をとったんだよ」なんてことを教えてくれる人もいる。

どれも全て、「その腕時計が何であるか」の説明だ。僕が知りたいのは「その腕時計が何なのか」ではなくて、「その腕時計の何に惹かれたか」。

WHATではなくてWHYなのだ。


僕たちは正当性を気にしすぎるきらがある。好きに値するのかどうかを考えすぎてしまうのだ。他の人が悪くいうものを好きになるのはダサいとか、すごい人が考えたことはすごいとか。本当は「好き・嫌い」や「面白い・退屈」、「感動・怒り」に理由なんて必要ない。

好きな理由なんて「なんとなく」とか「直感的に」とかで十分だ。それなのに、感覚的な理由をなんとなく避けてしまうのは、うすっぺらい人間だと思われたくないからなのかもしれない。「なんとなく」って言ってる人、ちょっとバカっぽく聞こえてしまうから。実際はそんなことないんだけれど。

存在しない理由や根拠を無理やり説明しようとすると、ついついWHYの代わりにWHATを語ってしまうのだと思う。


僕たちは常に周囲からの目線を気にしている。「不正解」を極端に恐れて、安心できる「正解」を求めている。そんな状況では、”○○賞”とか”有名なデザイナー”はもっともらしい「正解」のように見えるのだ。そんな形だけの「正解」ばかりを追いかけていると、本当の「好きな理由」はますます見えなくなってしまう。最悪の場合、自分の好きなものがわからなくなることだってある。

正当性とか「正解」とか、そんなものはどうでもいい。そういうことを考えるのは作り手だけで十分なのだ。正当性の呪縛から逃れられた時、初めて人は好きなものを見つけられるようになる。

好きなものを語る時はWHATではなくてWHYを語ろう。

正当性じゃなくて感覚を語ろう。

「正解」じゃなくて意見を語ろう。

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