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その夢って本当に叶える必要ある?

そもそも、なぜ「ああしたい」「こうしたい」という感覚が自分の中で生まれるのかを考えてみましょう。自分自身の行動を促したり、何かを成し遂げたいと思うのは自然なことですよね。

でも、他の人と比較して焦りを感じるような思いはどうでしょう?

それは周りと比較して焦る感覚、自然な「欲望」というよりも、周りからのプレッシャーによるものかもしれません。つまり、私たちが日常でよく経験する「悩み」であればそっと手放してみましょう。

焦らずに自分らしく過ごすことで、自然に何かをしたくなります。

それが本来の「やりたいこと」。
その段階で、自分のペースでアイデアを実行してみてください。

そして、大切なのは、結果や成果に固執しないこと。望んだ結果が得られなくても、残念に思ったり結果を求めるために無理をしないでください。

そこから先は「執着」になってしまいます。

ただ単に淡々と日々を過ごすことを受け入れることで、人生の意味を理解し、身も心も穏やかになれるでしょう。

自分がやりたくないことは無理にやらなくていいんです。

他の人が言うからやらなければいけない、やってみなければわからないという押し付けに惑わされないでください。

自分自身がやってみたいと思うのなら、どんな小さなことでも挑戦してみましょう。

自分で決めて行動することがいつも大切なんですよ。

やっぱりそうだったのね

何もしなくていいならそうしなさい

周りのことばかり気になって否定的な考えばかり浮かびますが、自分がすでにやるべき事に取り組んでいれば、周りを気にかけることもないでしょう。

無理に何かをしなければならないのではなく、何かをしたいと思えるようになるまで、何もせずに過ごすことの大切さを理解しましょう。

何もせず暇なのと、忙しい合間の余暇とはまるで意味合いが異なります。それでもなお、自ら無関係な事柄に首を突っ込んで無意味な言動を続けることはありません。

そんな風に振る舞うことができるのも、すべては自分たちの周りの人々やこれまでこの国の礎となってきた先祖のおかげですが、それを忘れ、気づかずに平和で退屈で暇な日々を過ごすことは悲しいです。

周りに感謝することも、自分を癒すことも忘れた現代人。

自分で何をすべきかわからず、ロボットや人工知能以下の人間たちが、自動化された工場やAIなどのテクノロジーを馬鹿にする。
それだけでは飽き足らず、変化の兆しのたびに否定し、足を引っ張り邪魔をして全体に迷惑をかけ続ける。

自分たちの習性を理解せぬまま互いに傷を舐め合うために群れ、どんどんその規模は拡大し、謎の団体が誕生。
彼らの負のエネルギーは、政治や宗教活動のようなそもそも無味乾燥であったはずの無関係な事柄にまで及び、やがて社会全体に影を落とす。

つまりは暇ではじめた空虚な自分を埋めるための無意味な言動が、自分のみならず無関係な事柄や人々をさえ巻き込み影響を与え続ける。

すべては周りとの比較からくる焦りが原因。つまり傲慢。

何をすればいいかわからぬがゆえ、とりあえず後ろ指指されぬよう、それっぽいことをする。その利己的で無意味な言動が地域社会の迷惑となろうがお構いなし。

満たされぬ己の心を理解できず、何もしていないことへの恐れや不安から逃れるための利己主義の成れの果て。自分を正当化するために、snsにおける日々の投稿へのイイネの数を気にする。

何をどうすればいいかなんて考えなくていいから、まずは休もう。
せめて何もするな。全てはそれから。

肉体的な自分と精神的な自分という二つでひとつの自分への理解に努め、その自分を許すことからはじめよう。

自分には必要な準備期間、充電期間があることを忘れないで。
今、していないことは、しなくてもいいこと。とにもかくにも心に余裕を持つことが大切。

肉体的な休息
自分にあった仕事、食事、睡眠といった生活習慣の確保。
尊敬される仕事や高給である必要はなく、メディアが報じる健康食品でもなく、周りに合わせるでもなく、自分だけのプログラム。
意外と盲点なのは、加齢や時とともにそれらが移りゆくものであることを忘れがちだということ。

精神的な癒し
精神は目に見えず、軽んじられがちだが、肉体同様に大切な存在。
精神とはつまり、ココロの働きのことである。
まず自分に心がある事を思い出し認め寄り添うこと。そのために神社にお参りに行ったり、近所の自然に触れたり、散歩するなどするといいだろう。

とにかくもう休め

堂々と根拠なくやりたいと言う

気晴らしは、心をリフレッシュさせるための方法。ただし、自分の気持ちを偽ってまでやりたくない仕事や奉仕を続けるのは同じでしょうか?

自分本来のやるべきことは、心のままに行動すること。ただし、学校や会社で自分とは関係のないことに時間を費やすことが必ずしも効率的だとはいえず、それでも新たな経験をすることは大いに意味があります。

実際の体験は効果的な教訓となります。ですから、失敗を恐れる必要はありません。

自分以外の人、例えば先生や親の言いなりになることは、成長の機会を奪うことにつながる行為でもあることに注意したい。残念ながら、素直な子ほど周りや両親に遠慮して自らのチャンスを逃してしまいがち。

さらに言えば、自分の能力や体力を超えるような大きな理想を追い求めてしまう傾向にもあります。

結局のところ、自分自身を理解するのは自分自身にしかできません。
他の人がどう思おうとも、自分が取り組みたいことをコツコツと続けることが、大きな夢への架け橋になります。

何よりもまず「私は今これをしたい」という勇気を持つことが大切であり、そのうえで周りを納得させたいのであれば、自分の言葉で説得するために工夫しましょう。

ただし、実際にその時が来た時には、周りを納得させるための努力の大部分は徒労に終わることが分かります。なぜなら、自分が思っているよりも周囲の人々は理解が早く、驚くほど協力的だからです。

皆さんも一度は「もうだめだ」と思った経験があると思います。その時のことを思い出してみてください。恐らく、何とかなったのではないでしょうか?

人生は時として、自分らしく生きるほど、何だかよくわからない見えない力が働き、色々な辻褄合わせが起こるものです。であればこそ、自分自身の可能性を狭める結果となる「こうでなければならない」という考え方はおすすめできません。

どれだけ走り続けても、どんなに高く飛び続けても、満たされることの無い自分。創作意欲の喪失や生き甲斐の欠如といった悩みを抱えることは、人間として当然のこと。

でもそれでいい。
それでこそ、人間として生きている証。

自分を決めつけずに、ありのままの自分を生きられているかが大切。
夢はただ見るだけのものではなく、実現しようとする過程で思いもよらない出来事や経験へ導いてくれる、そのための心からのギフトである。

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