岩崎洋祐

1975年生まれ。埼玉県出身。大学を卒業後、アメリカ大陸を放浪。帰国後にコンサルティン…

岩崎洋祐

1975年生まれ。埼玉県出身。大学を卒業後、アメリカ大陸を放浪。帰国後にコンサルティング就職し、現在は企業向けITプロジェクトのマネジメント業務に従事。趣味は読書(主に哲学・政治・歴史)、ウインドサーフィンで、最近、ボルダリングも。家族は妻、娘二人、猫一匹(アビシニアン)

最近の記事

20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ロサンゼルス、2000年4月)

グランドキャニオンを離れた後、ラスベガスを経由して、ロサンゼルスに向かった。名前は忘れてしまったがリトル東京にある日本人宿に泊まった。 昔の大河ドラマ「山河燃ゆ」を見て日系人の歴史に興味があったので全米日系人博物館に行ってみる。そこで日系人と白人のハーフというお姉さんにいろいろと説明をしてもらった。当時でも多くの日系人は郊外の閑静な住宅地に転出してしまって、リトル東京に残っているのは飲食や観光に関係する人たちぐらいということだったと思う。確かに、リトル東京のすぐ南側にあるス

    • 20年前のアメリカ大陸縦断旅行(サンフランシスコ、2000年4月)

      ロサンゼルスの後はサンフランシスコへ向かった。ロサンゼルスに比べるとこじんまりとした綺麗な街でケーブルカーと言われている路面電車に乗って動き回った。

      • 20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ヨセミテ、2000年4月)

        サンフランシスコの次はヨセミテ国立公園に向かった。まずマーセドという町に行って、そこでバスを乗り換えてヨセミテへ向かう。例によって公共交通機関を使う人は少ないのだろう。マーセドからヨセミテへのバスに乗っているのは自分と公園内でホテルか何かの従業員の2人であった。 公園内の宿泊はホテル・ロッジ・テントなどがあったと思うが、家族連れの観光客が大勢を占める中で一人で泊まるに適したものはなく、仕方がないので一番安いテント(大分大きいテント)を借りてここでの宿とした。こういうところで

        • 20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ティファナ・グアナファト・サカテカス、2000年5月)

          ヨセミテからはいよいよメキシコに向かう。とりあえずサンディエゴまで行き、国境を越えて、メキシコ側の国境の町であるティファナへ入る。急に雰囲気が変わる。国境の町とは言え、びっくりするぐらい英語が通じない。でも、結構日本語で客引きをしてくる。ティファナからバスでバハカリフォルニア半島の先端にあるラパスへ向かう。24時間ぐらいかかって大変だった記憶があるが、途中にサボテンの荒野があったりとメキシコという風景が広がっていた。ほとんど覚えていないがラパスからはフェリーに乗ってカリフォル

        20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ロサンゼルス、2000年4月)

        • 20年前のアメリカ大陸縦断旅行(サンフランシスコ、2000年4月)

        • 20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ヨセミテ、2000年4月)

        • 20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ティファナ・グアナファト・サカテカス、2000年5月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(メキシコシティ、2000年5月)

          グアナファトからメキシコシティに向かう。今もあると思うが、メキシコシティにはペンションアミーゴとサンフェルナンド館という日本人宿があった。地球の歩き方を見ながらどっちにしようか考えて新しくきれいそうなサンフェルナンド館に決めた。 メキシコシティではソカロをはじめとした市街地の見所と郊外にあるテオティワカンを見て回った。 メキシコシティでは、サンフェルナンド館で日本からの旅行者の方々と交流したり、たまたま知り合った現地の中学生に町を案内してもらったりといい思い出ができた。

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(メキシコシティ、2000年5月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(オアハカ・パレンケ、2000年5月)

          メキシコシティを後に次はオアハカに向かう。この辺からは古代文明の遺跡が多くあり、歴史に興味があったので、一通り見ていこうと思った。オアハカ近郊ではモンテアルバン遺跡・ミトラ遺跡、パレンケ近郊では文字通りパレンケ遺跡を見て回った。

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(オアハカ・パレンケ、2000年5月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ウシュマル・チチェンイッツァ、2000年5月)

          パレンケの次はウシュマル遺跡に向かう。途中でメリダというユカタン半島最大の都市を訪れた。これといった観光はせずに宿で洗濯物をしていたぐらいなのだが、そこで知り合ったスウェーデン人のクリスティーン(という名前だったと思う)にグアテマラに行くとスペイン語が安く学べるよ、という情報をもらった。カタコトのスペイン語で何とか最低限の旅行をすることができていたが、現地の人ともっとコミュニケーションしたいと思っていたところだった。 次にチチェンイッツァに向かう。ウシュマルとチチェンイッツ

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ウシュマル・チチェンイッツァ、2000年5月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(カラコル、2000年6月)

          メキシコとグアテマラの間にベリーズという国がある。周囲は全てスペイン語圏だがベリーズだけが英語圏で現在も英連邦の国である。グアテマラへの通過点と言っては失礼だがせっかくなのでベリーズに行ってみた。少し面倒なのがビザが必要だったのでメキシコ側の国境の町であるチェトマルのベリーズ領事館でビザを取得した上、入国した。領事館といっても、住宅地のようなところにある一軒家がそれであったので、大分のどかな感じだなと思った記憶がある。 ベリーズではカラコルというマヤの遺跡に行った。まだ、そ

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(カラコル、2000年6月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ティカル、2000年6月)

          ベリーズを後にしてグアテマラに入る。まずは、ティカルというマヤの遺跡に行ってみる。遺跡続きで若干食傷気味だった。ここ以降しばらく遺跡はない。ティカル遺跡はとてもよく整備されており、遺跡に併設した宿泊施設としての小屋があり、そこに泊まることができた。 遺跡は鬱蒼としたジャングルの中に古代文明の建物が残っているのであるが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」さながらであった。

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ティカル、2000年6月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(グアテマラシティ、2000年6月)

          ティカルを後にして首都グアテマラシティに向かう。ボンネット型のバスで24時間ぐらいほどかかった。ジャングルにあるティカルから高原にあるグアテマラシティまで高度をあげるための山道が続き、雨季だったこともあり、道が悪いため途中で何回か止まったり、バスを乗り換えるなんてこともあった。 グアテマラシティではとりあえずバスターミナル近くの宿を確保し(冒頭の写真はホテルからの風景)、その後は、シティバンクに行ってグアテマラでの通貨であるケツァールを多めに引き出した。中南米の都市では大体

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(グアテマラシティ、2000年6月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(シェラ、2000年6〜9月)

          グアテマラシティから5時間ぐらいでケツァールテナンゴ(シェラ)に到着する。シェラではメキシコのメリダでスウェーデン人のクリスティーンに教えてもらったスペイン語語学学校に行ってみることにした。 グアテマラの画家であるJuan Sisayから名前をとった学校で、Sisai Spanish Schoolという名前で今でもやっている。このスクールは月曜日から金曜日まで1日5時間ぐらい」のマンツーマン授業とホームステイを合わせて130ドル/週で提供していた(現在の金額は違うと思う)。

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(シェラ、2000年6〜9月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(コパン、2000年9月)

          4ヶ月滞在したシェラを後にしてエルサルバドルからホンジュラスへと向かう。国境までバスで行き、国境でパスポートのチェックを受け、また次の国でバスに乗るということになるが、毎回緊張する。エルサルバドルでは首都のサンサルバドルに少し滞在して、すぐにホンジュラスにあるコパン遺跡に向かった(冒頭の写真)。ここもマヤの遺跡である。この先はもうマヤ遺跡というか中央アメリカの大きな遺跡はあまりなかったと思う。ここもティカルと同様整備されており入場料も少し高かったと記憶している。現地の人はなか

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(コパン、2000年9月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ニカラグア湖、2000年9〜10月)

          ホンジュラスを後にしてニカラグアへ向かう。まずレオンという町を経由して首都であるマナグアに到達する。ニカラグアは内戦が続き国が混乱したため優秀な人ほど海外に流出してしまい貧しい状態になってしまったという話を聞いた。 マナグアからは、ニカラグア湖岸のサンホルヘという町に行き、そこからフェリーでちょっとした観光地になっているオメテペ島のモヨガルパという町に行ったと思う。

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(ニカラグア湖、2000年9〜10月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(パナマシティ、2000年10月)

          ニカラグアを後にしてコスタリカの首都サンホセを経由してパナマの首都パナマシティへ向かう。当時からコスタリカでは国立公園の観光が有名であったが少しお金がかかるのでスキップした。 パナマシティでは多分宿であったと思うがオーストリア人の旅行者と知り合って一緒に市内観光をした。オーストラリアではカメラマンの仕事をしていて、半年仕事をしては半年旅行をするという生活を繰り返しているということだった。さすがヨーロッパは進んでいて自由な生活ができるんだなと思った。パナマでは他にパナマ運河を

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(パナマシティ、2000年10月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(カルタヘナ、2000年10月)

          パナマを後にして飛行機でコロンビアのカルタヘナへ向かった。カルタヘナはカリブ海に面した港町で現地のコロンビア人も観光に来る来る町で、スペイン統治時代の古い町並みや要塞が残っている。また他のラテンアメリカ諸国と異なり野球がメジャーなスポーツとなっているため街中で野球場を見かけた。 カルタヘナではメデジン(コロンビア第二の都市で当時は麻薬カルテルの本拠地として有名だった)から観光に来ているというホルヘ一家と仲良くなった。コロンビアは日本人に限らず海外からの旅行者が少なくめずらし

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(カルタヘナ、2000年10月)

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(メデジン、2000年10月)

          カルタヘナからメデジンというコロンビア第二の都市に向かう。メデジンと言えばコカインの麻薬カルテルの本拠地ということで有名であった。それとどう関係しているかまで詳しくは分からなかったが、街中に行方不明者のポスターがよく貼られていた。 まずはカルタヘナで出会ったホルヘを尋ねてみる。メデジンの少し手前の郊外である。もらった住所を頼りにしてカルタヘナからメデジン行きのバスを大分中途半端なところで降りる。本当にここでよいのかと思いながら歩いていって何とかホルヘの家に到着できた。そこで

          20年前のアメリカ大陸縦断旅行(メデジン、2000年10月)