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【URコラム】#私の履歴書

※『URBAN RESEARCH Media』にて2019年10月18日に掲載された内容をここに残す。
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初めまして。ヨシモトユウスケと申します。
飲み屋でこのURBAN RESEARCH MEDIAの編集部の方と出逢ったご縁から、コラムを執筆させて頂くことになりました。宜しくお願い致します。
第一回の今回は、ハジメマシテの方々に向け、まずは自己紹介させて下さい。
たったひとりの人生ですが、楽しんで接して頂ければ幸いです。


■私は何屋か?■

※画像1(POP-UPイケ麺バー)


それは「流れの料理人」とでもいいますか。各地を旅し、普段は京都で麺打ちをしながら気まぐれに『POP-UPイケ麺バー』なる、歯が浮くような業態をしております。実は最近大阪・東京にも進出が決まったので、近々そちらのこともこのコラムで発信できればと。※POP-UP(ポップアップ)=「突然現れる」という意味から、期間限定でのショップや飲食店のことを指す。(ex.ポップアップショップ、ポップアップレストラン等)
あと、いま流行の「LGBTウンヌンカンヌン」のうち「G」と勝手に分類されてるやつで。自分の性別は男、恋愛対象も男。なんのややこしさもない「ただのゲイ」でございます。お見知りおきを。。。

※画像2
コラムニストのお仕事は今回が初めてでありますが、今年初めから『note』を書き始めまして、今回のお仕事も僕の『note』を見つけていただいたことがきっかけで始まりました。よろしければそちらもご一読頂ければと存じます。

その他、ラジオ番組の構成作家をしたり、祇園でPOP-UPスナックをしたり、ニューヨークシェフの調理補助兼ヘラヘラ通訳をさせて頂いたり。なんでもやってみたい尻軽女でございます。

使える言語は…英語:ビジネスレベル○、ドイツ語:日常会話レベル△、オネェ語:師範レベル☆。

なぜこんな“仕上がり”になってしまったのか?たかが一人の人生ですが、千差万別、十人十色。そら、いろいろありまして・・・


■敷かれたレールを走ってみる■

※画像3(サラリーマン)
一応は『近畿キッズ』として近畿のはしくれで生まれ育ちました。小→中→高→大、それはまぁきれいに全て公立で済んだ“エコ息子”でした。新卒ヨーイドン!の号砲にもちゃんと反応して、大卒後はリクルートエージェント(現・リクルートキャリア)に入社。約3年間の営業を経て、転職。博報堂に入社。ここでも営業として約3年間、社畜をしていました。
そこまでは自分で言うのもなんですが世の中的な『超・好物件』でした。「未婚・20代後半・大手広告代理店勤務」。それはそれは、婚活パーティーの売れっ子のような要素満載でした。

それがつまんなかったのよ。

華麗なる転落人生の、はじまりはじまり


■自らを脱線させてみる■

※画像4(マチュピチュ)
博報堂を辞めた時、2カ月くらいかけて世界一周バックパッカーをした。それがよくなかった。
世界がとてつもなく広い事、自分が小さかった事を知ってしまったから。

当時28歳。浪人も留年もせずストレートで大学を出て、既に社会人経験が6年。ヘタすりゃ間もなく貯金や財テクに走り、マンションまで買ってしまいそうな中で、「何をそんなに生き急いでいるんだ!?」と世界中の方々に叱咤激励していただきました。世界には30歳になっても大学生してる輩がゴロゴロいたし、ちょっと働いてはちょっと旅に出て、ユダヤ人のように世界を点々とし知見を広げようとしている輩もいた。中には体たらくな奴もいたし、自分の意志と責任でそうしている輩もいた。

僕は日本の新幹線の快適さに慣れ過ぎていたんだと思う。インドの鉄道のようにもっとハラハラドキドキしないと、脳みそと筋肉がとろけてしまう。

当時の僕には、“生きている実感”が必要だった。

僕は日本にいることを辞めた。旅先で気に入ったドイツ・ベルリンに家出同然で引っ越した。
それがよかった。

■第一期ベルリン史■

※画像5(ベルリンの公園カラオケ大会)
ベルリンに移住し仕事もせず、毎日のように遊んでいた。奇しくも当時はギリシャ発端のユーロ危機の真っただ中(2011年頃)。1ユーロが100円を切り、僕の日本円貯蓄は首尾よく良くユーロに両替され、そしてtechno clubやwodkaへと消えていった。
そろそろ何か次の仕事がしなきゃと思い日系企業の現地採用に応募したが、せっかく欧州にいるのにまた日本人と一緒に仕事するのかよと思ったら最終面接前に完全に萎えた。日本にいるのと変わんねぇ。なんてつまらない選択をしようとしているんだと。
窓の外の景色はドイツなのに、室内にはペコペコと、自分の意志を殺し合い、それぞれの人生を終えていくヤパーナー。全然気が乗らず、やめた。
なんとなく自分の人生をシフトしたかった。尻軽の尻に火がついた。

そんな時、日本料理の世界に出会った。「自分が料理人になったら・・・」と想像したら三日三晩眠れなかった。三十手前のいい大人が、遠足前の小学生状態になった。ノートに『自分が何を持っていれば、どこに行き、何ができるか?』を記せば記すほど、そこは殴り書きであふれた。

翌日には辻調理師専門学校の資料請求をドイツからしていた。


■Osaka/Kyoto■

※画像6(割烹屋修行)
ちょうどその頃、九十を超えた祖父から生前財産分与を受けた。その数年後、祖父は亡くなった。自分の口から「有効に使いなさい」と伝え残していってくれた。シベリア出兵を生き抜き、戦後自分で事業を起こした立派な人だった。何より、「死人に口なし」を生きているうちから分かっていた方だった。
兄はマンションを買った。弟は車を買った。僕は経験を買った。
一年間、辻調で日本料理を学んだ。それから人生二度目の「春の学生採用ヨーイドン!」に参加。案外楽しかった。

三十路で京都の割烹屋に新卒入社した。


■第二期ベルリン史■

※画像7(夜のBerlin)
2年弱の京都修行の時、そのオファーは来た。
もともと世界を夢見て選んだ日本料理の仕事だったし、ベルリンの和食店からのオファーが来て、僕は決心してまたベルリンへと越していった。しかしこれは失敗に終わった。1年足らずで僕はまた日本に帰国した。当時は塞ぎ込んだ時期もあったけど、今はなにも後悔はしていない。
「人に裏切られること」を学んだ。


■今/健全なアウトプット■

※画像8(そば打ち)
そして今。2年前ほどから京都に戻り暮らしている。
去年から麺打ちにハマり、日本各地に蕎麦やうどんの修行に行った。今でも時間を見つけては修行に行きたいが、せっかくだし、学んだことを“ご披露”する場として『POP-UPイケ麺バー』を始めてみた。
こうしてコラムを書くこともそうだが、そろそろ学びと同時並行的にに“健全なアウトプット”をしていきたい。その中でまた新しい世界が広がればと思う。


■未来■

※画像9(イラン旅行)

よく「将来どうなってたいの?」と聞かれますが、逆に聞きたい。
『あなたは将来どうなってたいの?』
これに明確に答えられる人なんていないと思うし、そんなこと考えているくらいなら、動き続けていたほうが僕は健全だと思う。

老舗企業の社長ならあくまで会社として今後のビジョンを描いて然りかもしれないですが、一個人の将来なんて「曖昧」であることの方が「自然」だと思う。
明日大きな事故に遭うかもしれないし、明日運命の人と出逢うかもしれない。そしたら昨日考えていたことなんてバカみたいにコロっと変わる。それでいい。
このコラムを読んでくれた誰かが、明日には海外に飛び出ているかもしれない。Who knows?
ただ、そんな僕にも「来年への想い」というか「目標」ぐらいはこの秋の季節にはなんとなく出てくる。
前提として『来年、どこで何をしているかわからない』という自分自身の可能性の“曖昧さ”が、僕自身のワクワク感、そして原動力につながっている。その不安定さはむしろ楽しむ気持ちでいたいと常々思う。

(※写真は今年旅したイラン。とても平和で親日で素晴らしい国だったのに、その後、タンカー事故が起こり米国と関係が悪化。ますます行きにくい国に。世界は今も動いている。)

アラフォーが見えてきた今でも20代の男子とデートするし、若さを吸い取って魔女のように生きてやろうと思うのに、最近の若い子は「家がいいです」とよく言うので、ガッツいている自分のほうが野獣のようである。(笑)
そろそろまたグーグルアースを広げ、次はどこで何をしてやろうかと企む今日この頃。

振り返ると、第二期ベルリン史では少し無理がたたったのかもしれない。だから次は、日本をベースにしながら海外への展開ができないかと考えている。いい怯えが、いい守りとなり、そしていい攻めに繋がればと願う。

最後に「このコラムのテーマはなんでもいいよ」と編集部さんから言われたので、これからも自分の枠の白でも黒でもなく“グレーの可能性”を信じ、読者のみなさんと楽しく接点が持てれば幸いです。


どうぞ、よろしゅうおたのもうします。

吉本悠佑


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