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舞台 「六英花 朽葉」 観劇レビュー 2023/08/05


写真引用元:あやめ十八番 公式Twitter


写真引用元:あやめ十八番 公式Twitter


公演タイトル:「六英花 朽葉」
劇場:座・高円寺1
劇団・企画:あやめ十八番
脚本・演出:堀越涼
出演:秋葉陽司、藤原祐規、金子侑加、谷戸亮太、内田靖子、溝畑藍、蓮見のりこ、鈴木彩愛、武市佳久、鈴木真之介、北沢洋、吉田能、池田海人、吉田悠、中條日菜子、島田大翼、川田希、吉川純広、斎藤陽介、ムトコウヨウ、田久保柚香、中野亜美、庄司ゆらの
期間:8/5〜8/9(東京)
上演時間:約2時間15分(途中休憩なし)
作品キーワード:大正・昭和、生演奏、ヒューマンドラマ、無声映画
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆


2012年に劇団「花組芝居」の堀越涼さんが旗揚げした劇団「あやめ十八番」の演劇作品を初観劇。
「あやめ十八番」は、劇団公式HPに記載がある通り、様々な日本の古典芸能のエッセンスを盗み現代劇の中に昇華することと、現代人の感覚で古典演劇を再構築することの、両面から創作活動を行っている劇団で、それに加えて歌舞伎の下座音楽や落語の囃子に影響を受け、劇中音楽が全て生演奏であることも特徴である。
2021年には「Corich舞台芸術アワード!2021」において当劇団の『音楽劇 百夜車』(2021年10月)が4位に入賞、2022年には「Corich舞台芸術アワード!2022」において『空蝉』(2022年9月)が4位に入賞した他、第34回池袋演劇祭において優秀賞とCM大会賞を受賞するなど、世間的にも注目されている劇団である。

今作は、大正・昭和時代を生きた活動弁士(無声映画を上映中に、傍らでその内容を解説する専任の解説者)であり映画女優でもある根岸よう子という女性の生涯を描いた物語で、劇中の冒頭で彼女の人生の走馬灯の物語と語っているように、走馬灯のように流れるように数々のシーンが展開されていく。
根岸よう子(金子侑加)は兄の根岸実(藤原祐規)と共に活動弁士を目指し、見事その夢を果たす。
しかし、昭和初期は海外からトーキー映画(映像と音声が同期した映画)の文化が到来し、徐々に無声映画からトーキー映画へと時代は移り変わっていく。
それでも根岸実や根岸よう子といった活動弁士たちや、楽士(無声映画の映画館で音楽を演奏する人)たちは、そんな時代の変化に抗うべく緑風館という無声映画館に立て籠もってストライキを起こし...というもの。

「あやめ十八番」の演劇作品としては珍しく「大正ロマン」と「昭和モダン」のダブルキャストで上演され、私は「大正ロマン」の配役で今作を観劇した。
大正時代から昭和時代にかけての日本、活動弁士、そして無声映画からトーキー映画に移り変わる時代の潮流ということで、テーマとしても非常に私が好みなもの満載でエンターテイメントとして楽しめた。

作品の冒頭では、根岸よう子の幼少時代のエピソードを、無声映画の一部のように金子侑加さん演じる活動弁士の語り部によって展開される。
劇中劇的な演出で非常に目新しい演出である上、生演奏もあるので朗読劇的にも感じられて面白かったが、個人的には台詞スピードがその分早くなってしまっていて、シーンが流れるように展開されるので、没入感が弱かったのは少々勿体なく感じた。

しかし、そこからの活動弁士という職業を守るべく奮起する人々の生き様、そこには非常にドラマを感じさせられるし役者陣の好演もあってどんどん引き込まれていった。
劇中には苗(溝畑藍)という聾者の女優が登場し、彼女に対する差別も描かれていて当時の時代の残酷さも表現されているが、苗やよう子が時代の潮流によって評価されたり陥落したりと時代に翻弄される様もドラマとして心動かされた。
NHKドラマを見たときに得た感動と似たものを感じた。登場人物が皆ピュアで心が洗われた。

そして生演奏が本当に素晴らしい。
無声映画には楽士という奏者がいたように本作にも奏者が活躍していて、その活躍ぶりを体感するだけでも、今でもこうやって形を変えて楽士は生き残り続けているよなとも感じられて、スタッフへの愛を感じられる作品にも見えた。

現在ハリウッドでは、脚本家と俳優たちがエンタメ民間企業のAI投資に対してストライキを起こしていて、まさに現在にも通じる時代の潮流があって今上演すべき作品なのだと思う。
エンターテイメントとしても非常に楽しめるし、昨今の時代の変化がある中でこういった作品に出会えるということは、時代の変化に負けない勇気も与えてくれると思うので、多くの方に見て欲しい演劇作品だった。




【鑑賞動機】

「あやめ十八番」の芝居は観劇者の中で評判が高かったので、ずっと観たいと思っていた。しかし『音楽劇 百夜車』といい『空蝉』といい情報解禁のタイミングで既に予定が埋まっていてなかなか観劇が叶わずにいた。しかし、今作の情報解禁は割と早かったので満を持して観劇予約することが出来た。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

活動弁士の根岸よう子(金子侑加)が登場し、これは大正・昭和時代を生きた活動弁士から映画女優へ転身した根岸よう子/荒川朽葉の走馬灯の物語であると説明し、彼女の幼少期が根岸よう子を語り部として展開される。
子供時代のよう子(庄司ゆらの)には兄の実(中野亜美)がいた。根岸家は父親の根岸正三(秋葉陽司)と母親の根岸フミ(川田希)がいて、正三は元は活動写真の俳優の女形をやっていたが、時代の変化によって無声映画に女優が登場して人気を博したことによって正三は仕事を失っていた。
実は妹のよう子といつも一緒にいたが、近所の少年たちにいじめられていた。しかし実は、絶対に活動弁士になって父親の復讐を果たすのだと強く誓っていた。そんな兄の様子を見ていたよう子も活動弁士を目指すと決意していた。
1923年(大正12年)、関東では突然の大きな揺れが襲った。関東大震災である。浅草では建物の倒壊など激しかったが、その震災によって母親のフミは行方不明になってしまう。亡くなってしまったとも思うが、遺体が見当たらなかったことから誰かに連れ去られた可能性もあるとよう子は思った。

銀幕には「六英花 朽葉」とフライヤーで使われている女性の肖像画が写り、ここからは活動弁士の語り部ではなく普通の劇として根岸の人生が展開される。
時が経って、兄の実は夢を叶えて一流の活動弁士に、そして妹のよう子も活動弁士となって無声映画館である緑風館で働いていた。
緑風館は館長を柳静子(蓮見のりこ)が取り仕切っており、その娘である柳すず(鈴木彩愛)は見習い映画説明者として活動弁士の教育を、高沢勘平(武市佳久)から受けていた。柳すずは、映画で描写されている内容をそのまま分かりやすく伝えたいと言うが、高沢からは一般客のウケが良いように言葉を着飾るように求められる。
一方、実は主任楽士の萩武雄(吉田能)や楽士の郡司要平(池田海人)たちと飲んでいた。そして、仕事のことについて語っていた。無声映画を観にくる人間なんて芝居を観る金がない貧乏人だとか言っていた。しかし、誰が観にくるかを意識した弁士が大事だとも。そして、アメリカでは無声映画に取って代わってトーキー映画が流行り出しており、その流れが日本にやってきて活動弁士や楽士も立場が危ういかもしれないとも噂した。

実やよう子たちは、丁度アメリカから輸入されたばかりのトーキー映画を観に行った。音声は全て英語である。
英語では日本人には内容がわからず、本当であれば女優に翻訳して披露して欲しかったが、如何せん英語が分かる女優がいなかったので、ぜひ実にトーキー映画の日本語吹き替えをお願いしたいと依頼がくる。実は引き受ける。
実は、英語音声のトーキー映画を、途中途中停止しながら解説していく。しかし、観客はこれでは全然没入感が得られないと不満に感じ、大変不評で人気に繋がらなかった。

小説家の老竹孝蔵(北沢洋)は、映画監督の灰汁惣一郎(谷戸亮太)に会う。老竹は自分が書いた小説をトーキー映画にしてくれないかと灰汁にお願いし承諾する。
灰汁は老竹の書いた小説をトーキー映画化するために女優のオーディションを開始する。しかし、オーディションを受けてくる女性たちは、自分の所用を優先したいと考えているようなやる気のない女性だったり、台本に書かれていない台詞を勝手に話したりしてしまって良い女優に出会えずにいた。
一方、その頃玉ノ井・銘酒屋の「金糸雀」では一人の養女が娼婦として働いていた。彼女の名前は苗(溝畑藍)と言う。苗は耳が聞こえずちゃんと言葉を話すことが出来ないので、世間からはいじめられていていつも泣いていた。そんな苗を養女にして娼婦として引き取ったのは、「金糸雀」で娼婦として働く躑躅(内田靖子)だった。しかしその躑躅も、聾者であるが故に思い通りにしてくれない苗のことを蹴飛ばしたりして叱りつけていた。しかし、苗は躑躅や躑躅を贔屓にしていた高沢の教えによって文字を書けるまでになっていた。

そんなある日、灰汁が「金糸雀」に訪れる。灰汁は苗のことを見るやこの娘に惹かれ次の映画の女優にしたいと申し出る。
苗はその灰汁の要望を受け入れ女優としての名前を授かるが、如何せん彼女は上手く日本語を話せなかったので、彼女の代わりに日本語を話してくれる女性を探し求めた。
その頃、よう子はいよいよ無声映画からトーキー映画へ時代が移り変わろうとしていて、兄の実からは活動弁士を続けようとするよう子自身のことをバカにされていた。よう子は、父の正三だってそんな態度を取らなかったのに、なんでそんなことを言うのと兄の実を恨む。
そこへ、灰汁から苗を女優として出演させる映画で、活動弁士を担当してくれないかとよう子に依頼がくる。よう子はその依頼を承諾する。

老竹が脚本を書き、灰汁が映画監督となり、主演女優は苗で、彼女の音声をよう子が担当した映画は大ヒットし、苗とよう子の二人三脚で彼女たちは売れっ子になっていった。
苗は、自分が稼いだお金を躑躅に手渡ししたが、大金を得たからといって調子に乗るでないと躑躅は苗を叩きつける。
一方、老竹は自身の脚本が灰汁によって映画化されたことを受けて、再び灰汁に映画の打診をする。また脚本を授けるので映画化して欲しいのだが、一つ条件があってトーキー映画で撮って欲しいとのことだった。苗を起用して活動弁士に話してもらうのではなく。灰汁はそれを承諾する。

その頃緑風館では、度々物騒な事件が起きていた。誰かによって硫酸の入ったものを投げられ負傷者が出ていた。そして苗は行方不明になっていた。よう子と共に飛躍的に活躍した一方で、聾者に対する差別や偏見に傷ついたのかもしれない。また、無声映画からトーキー映画への時代の移り変わりにより、日本のあらゆる映画館で活動弁士の不当な解雇によるストライキが多発していた。
緑風館でも例外なく、活動弁士や楽士たちねの不当な解雇が始まろうとしていた。郡司が緑風館へ入ると、柳静子が柳すずを叩きつけていた。静子は、楽士たちのことばかり解雇について言及していたが、立場としては活動弁士も同じ。自分の身だけ守ろうとするなんて卑怯だと。そんな酷い仕打ちを受けているすずを郡司は助ける。

実たち活動弁士や楽士たちは、緑風館の映写室に立て籠もってストライキを起こす。
緑風館では、灰汁がトーキー映画で製作した映画が流れている。そしてそのトーキー映画の素晴らしさに観客も拍手喝采だが、最後のクレジットで脚本を担当したのが根岸実だと書かれている。実は灰汁にその理由を追及する。灰汁は勝手に人の脚本を盗んでしまうのは忍びないからだと言う。
またストライキに参加していた映写技師の水柿博(鈴木真之介)も、実は硫酸の事件を起こした張本人は自分で活動弁士たちに恨みがあったと暴露した。
こうして、緑風館のストライキも収束しトーキー映画館へと変貌していった。活動弁士の仕事もなくなり根岸よう子は郡司要平と結婚して、郡司葉子として映画女優に転身して活躍した。一方で、あんなに活動弁士を続けていくことをバカにした兄の根岸実は活動弁士を辞めることはなかった。そして、1945年の東京大空襲で緑風館が焼失するタイミングと同じくして実も亡くなった。
郡司葉子には子供も出来て、終戦後も家庭を築きながら映画女優として活躍した。

これは、根岸よう子の人生の走馬灯の物語。
最後に、役者陣が現代の服装をして電車などでスマートフォンで映像を眺めながら、ヘッドホンで音声を聞いていると思われる描写。そこに、ゲーミングチェアに座った男性(斎藤陽介)がやってきて、何かスタッフ的な指示出しをしている。ここで上演は終了する。

ラストの解釈は考察パートで触れることとし、個人的には走馬灯の物語とせずに、ワンシーンの描写をもっと時間をかけて丁寧に描いてくれた方がさらに没入感は高くて満足度は高かったかなと思った。けれど、素材が良いので非常に彼らの熱量には圧倒されたし、元気を沢山もらえる芝居だった。
もちろん、無声映画からトーキー映画へ時代が移り変わっていき、活動弁士たちがストライキを起こすという流れは想像出来たのだが、改めて観劇してみると胸打たれるものがあって、多少展開が読めてもストーリーを十分堪能することが出来た。
また、聾者の女優が活躍してその周囲の人間ドラマも描かれていたことが興味深かった。まだこの時代は聾者に人権はなかったと思われるので、その仕打ちがひどかったし、女性に対する仕打ちも当時はかなり厳しいものがあったなと上手く時代背景を反映している様子が、無声からトーキーという潮流以外にも感じられて胸打たれた。
この根岸よう子という女性は実在したのか調べてみたが、どうやら実在はしておらずフィクションのようである。しかし、無声映画の映画館で活動弁士によるストライキが起きたりと時代の流れは事実なので、凄くフィクションだけれど物語に説得力があったし、今の時代にも通じる生きづらさを感じられて今のタイミングで観られてよかった。


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

レトロな時代を扱っているにも関わらず、「大正ロマン」「昭和モダン」というダブルキャストでネーミングされているように、そこまでレトロという世界観は感じなかったが、どちらかというと「あやめ十八番」の作風なのかもしれないが要所要所に和という日本らしさを感じさせる世界観だった。そして劇団の特徴の一つである音楽劇と、活動弁士というテーマからくる朗読劇的な演出手法と盛りだくさんだった。
舞台装置、映像、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番で見ていく。

まずは舞台装置から。
ステージは、下手側の高台、上手側の高台、ステージ手前、ステージ奥、そして上手側手前の演奏者のエリアの5つが存在していた。
下手側の高台は、主に根岸よう子が活動弁士として台本を読み上げるエリアとして機能していた。また、小説家の老竹と映画監督の灰汁が会話するシーンも基本そのエリアだった。上手側の高台は、主に「金糸雀」の屋敷内であることが多く、苗が躑躅から指導を受けるシーンは主にその高台で描かれていた。
ステージ手前の広々としたエリアがメインのステージとなっていて、そこには何か舞台装置が仕込まれている訳ではなく、ひたすら真っ黒に染められたステージとなっていて、基本的に多くの芝居がそのエリアで上演されていた。
そのステージ中央の広いエリアの奥側には、数段ほどの階段を登って大きな幕がかけられていた。この幕は半透明で奥に誰がいるか何があるかが客席から分かる。劇中ではこの幕が銀幕として機能していて、映像を映し出すスクリーンの役割も果たしていた。その奥には、下手側に関東大震災を象徴するような倒壊しかかった建物の舞台装置が置かれていた。幕の奥側は、主にストライキを起こした弁士や楽士たちがいたエリアになっていたり、映画のシーンを役者が演じる際のステージになったりしていた。
全体的にモノクロの舞台装置で、それはまるで作品全体が昔の無声映画やトーキー映画を模しているようである。観客としては、横に広いステージに感じたので、見どころがワンシーンでも沢山あって2度以上観劇しても新たな発見がありそうなそんな舞台セットだった。

次に、映像について。
映像といっても、そこまで映像を駆使した演出にはなっていなかったが、劇序盤の「六英花 朽葉」という文字とリリアン・ギッシュのような女性の肖像画が銀幕に浮き上がった映像が圧巻だった。
無声映画やトーキー映画を扱う作品なのに、映像をほとんど使わずに、映画の内容を観客にイメージさせたり、ステージ上で役者が演じるという手法に終始している点も興味深かった。逆にそれによって、活動弁士による説明の臨場感が若干出ていなくて、活動弁士をイメージしにくいといった印象もあったが、そこまで気にはならなかった。

次に舞台照明について。
なんといっても、銀幕にまるで映写機によって映画が投影されているかのようにチカチカと光が当たる感じの演出が個人的には好きだった。
あとはスポットライトで、一つの照明によって1箇所が照らされるみたいな照明演出が多かったように思える。活動弁士の根岸よう子を照らすスポット照明、苗を照らすスポット照明、誰を照らしているか忘れたが下手側から上手に向かって役者一人を照らす照明など。
照明にも吊り込み方から工夫が凝らされているように感じた。

そして舞台音響について。基本的には劇中のBGMも、効果音的なものも全て生演奏、生音で披露されていた印象。
BGMに関しては、吉田能さんによるピアノ、池田海人さん、島田大翼によるファゴット/アコーディオン、吉田悠さんによるパーカッション、中條日菜子さんによるヴァイオリンで演奏されていた。私が観劇した感じだと、もっと生演奏の演出がかなり舞台全面に出てくるのかと思ったが、音楽のみをみせるシーンというのはなく、あくまで劇中のBGMとして流れていたので、そこまで目立つことはなく演者が際立っていたので、全くノイズになることはなかった。NHKドラマを思わせるような、良い意味で映像的な演劇で役者同士の会話に上手く集中できるレベルのBGMといった印象で絶妙だった。
あとは、ストライキシーンの生音が素晴らしかった。ミュージカル『レ・ミゼラブル』のバリケードシーンではないが、楽士たちや弁士たちがストライキを起こして抗う時に、パーカッションなどが威勢よく響いていて、こういったシーンこそ生で演劇を観る迫力があったと思う。
あとは実際に奏者のエリアに映写機が置かれていて、そこから映写機の生音も聞こえていて臨場感があった。あとは、ビブスラップみたいな楽器で効果音的に生音を出したりしていたのもよかった。

最後にその他の演出で印象に残ったことについて記載する。
この作品は、活動弁士をテーマにした物語で、根岸よう子自身の人生を振り返る走馬灯の物語となっている。そのため、モノローグとしてよう子自身が活動弁士になって自身の人生を作品として振り返るシーンが多く存在する。劇序盤以外は特に気にならなかったが、序盤はよう子自身の幼少期をよう子自身の弁士によってまるで朗読劇的に展開される。ステージ上に登場する役者も、演技はするものの言葉を発することはせず、全て音声はよう子の読み上げによって披露されていたが、そこがとてつもなくシーンとしての情報量が多いだけでなく、走馬灯なので展開も早く、しかも尺も結構長かったので没入感が足りなかった。序盤から置いてきぼりを食う感じがあって、私が作品に引き込まれるのに時間がかかった印象。活動弁士的に朗読劇のように演出するという発想は面白いが、ちょっと観客としては上手く乗り切らなかった。
朗読劇というスタイルは、他の芝居でも沢山見られる。これは個人的な好みになるかもしれないが、朗読劇って台詞が結構流れていってしまうので没入感に乏しくて、凄くシーンが軽くなってしまう側面があるので、私はあまり好きではないが、それ以外の箇所の演出に関しては素晴らしかったので、満足度としては高かったから良いのだが、もっと見せ方を工夫しても良いのかもと思った。
あとは、活動弁士・楽士による無声映画と、今回の舞台上演というのがリンクしている部分が多々見られたのも面白かった。まるで演劇というものを上手く100年前の無声映画に置き換えている感じを受けた。例えば、先ほどの活動弁士によって朗読劇的に展開されるのもそうなのだが、生演奏の位置付けに関して強くそう思えた。劇中では全てBGMや効果音が奏者によるものであるというのは、無声映画の音楽は楽士によるものというのと対応しているし、奏者が楽士として弁士とストライキを起こすという展開も、どこか現代の演劇が潰されそうという潮流ともリンクしている気がする。考察パートでも描くが、AIによって創作者の仕事が奪われてしまうという現在進行形の問題ともリンクしているのである。だからこそ、当時の無声映画と今の演劇というものが非常に対応にしているように感じられた。
あとは細かい演出だが面白かった点としては、関東大震災の役者全員がゆらゆらと揺さぶられる動きが印象に残った。


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

若干脚本のテーマや生演奏に助けられている感もあったが、役者陣の演技も非常に心を揺さぶられるものが多かったし、とにかくみんな熱量がこもっていたので観ていて物凄く元気をもらえた。
「大正ロマン」の配役で、特に気になった役者さんについて記載していく。

まずは、主人公の根岸よう子/荒川朽葉役を演じた「あやめ十八番」所属の金子侑加さん。彼女の演技を拝見するのはおそらく初めて。
今回の作品で、一番活動弁士としてモノローグが多いよう子の役だが、特に序盤のシーンは若干話すスピードが早くて追いつけない部分もあったが、走馬灯の物語ということなので意図的なのだろう。台本をおそらく見ながらとはいえ、あの量の台詞量を披露するって素晴らしいことだなと思う。
逆にいえば、かつての無声映画の活動弁士たちはその膨大な台詞量を観客の前で披露していたということだろう。当時は芝居を観にいくのはお金の持った観客で、お金のない貧乏人が映画を観に来ていたというので、きっと活動弁士たちの中でも、色々と思うことはあったに違いないと思う。たしかによう子みたいに活動弁士をやりながら女優もやったりみたいな人も沢山いたのだろうなと思う。そういった当時の芸術とそこに携わる人々の価値観などを色々考えたりなど出来て楽しかった。
あとは、黒い着物が非常に似合っていて、女性活動弁士としての貫禄があってその落ち着いた感じも好きだった。

次に、根岸実/荒川木蘭役を演じた藤原祐規さんも素晴らしかった。藤原さんは、キ上の空論の『幾度の群青に溺れ』(2023年7月)で演技を拝見したばかりである。
とにかく今回の作品でも、非常に熱い男性を演じられていて印象深かった。
実は、父親の正三と違い、凋落しつつある活動弁士にしがみつくよう子をバカにした。けれど、最後まで活動弁士にしがみついたのは他でもなく実自身だった。そこが同じ男性である私にとっても共感できるポイントで好きだった。小さい頃からずっと活動弁士に憧れてきたので、その夢を叶えたから簡単に活動弁士を手放したくない、それは分かると思う。けれど、そこに自分と同じようにしがみつく妹を見ているときっともう一人の自分を見ているようで苛立ってくるんじゃないかと思う。自分が置かれている立場を客観視出来てしまって居心地悪いのかななんて思う、上手く言語化出来ないが。
そのあたりに、根岸実という人物に惹かれるポイントがあった。そして、灰汁が手がけたトーキー映画のクレジットで自分の名前が出てきてしまう時のショックとかもよかった。

映画監督の灰汁惣一郎役を演じた谷戸亮太さんも素晴らしかった。
ちょっとナヨっとした感じがあって、癖があって好き嫌いが分かれそうなミステリアスなキャラクター。オーラもちょっと暗い感じがあって、序盤から善良な人間ではないなと感じて、それは的中していた。
でも、そんな独特なオーラが非常に舞台上に映えていて役者として素晴らしかった。きっと、灰汁自身も無声映画からトーキー映画に移り変わる時代において、彼自身も複雑な思いを抱いていたと思う。でも、時代の流れには抗えずトーキー映画の監督として転身していく感じもよかった。
でもこういう感じのキャラクターは、「金糸雀」に出入りするような奴だから女優とかに手を出しそうな、今でいうとNGな映画監督だろうなと思う。

躑躅役の内田靖子さんと苗役の溝畑藍さんのコンビもよかった。溝畑藍さんに関しては、虚構の劇団の『日本人のへそ』(2022年10月)で観劇している。
躑躅は、聾者の苗を養女にしたものの、身体に障害のある人に対する差別が根強かった当時は、皆当たりが強かったのだろうなと思う。躑躅には、苗に対しる優しさもありながら憎しみもあるように感じられて、この感情は複雑だなと思った。一方で、苗はいつも泣いていてたしかに劇中では惨めに思ってしまう。だからこそ、この時代はまだまだ聾者に対する理解がなかったのだなと時代の残酷さも感じた。
けれど、苗は女優として大金を手に入れて、その大金を躑躅に手渡すくらいの優しい心を持った女性でいてくれて本当によかったとも思った。それを叩きのめす躑躅は残酷だったが、苗は躑躅のことを恨んでいたのではなく、恩返ししたいと思っていたんだなと考えるとなんだか泣けてくる。その優しさはひどい差別によってかき消されていなくて良かったと思った。

あとは、柳すず役を演じた劇団ラビット番長の鈴木彩愛さんの、一生懸命に活動弁士になろうと奮闘する姿は好きだったし、子供時代の実役を演じた中野亜美さんの逞しさ、堂々としている感じにもオーラがあって惹かれた。彼女の演技は初めて観たけれど、なかなかハキハキした口調と演技に今後の活躍が期待される。「昭和モダン」の苗役も観てみたかったと思った。


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

以前から気になっていた「あやめ十八番」の演劇作品を初観劇だったが、評判通り面白い作品に出会えて帰り道は胸がいっぱいだった。
結構エンターテイメントな演劇というイメージを当初から抱いていて、そこに関しては間違いはなかったのだが、こんなにも現代社会とリンクした作品だとは思っていなかったし、そういった作品を上演する団体だとも思っていなかったので、そこに関してはイメージと違って驚き、逆により楽しめた気がした。
ここでは、活動弁士という職業についてと、無声映画からトーキー映画に移り変わる時代と現代の比較、そしてラストシーンの考察をしていきたいと思う。

公演パンフレットには、堀越さんがなぜ「活動弁士」についての演劇作品を手がけることになったかについて記載されている。
そこを読んで私が興味を惹かれたのは、この「活動弁士」というのは実は日本独特の職種で落語という文化とも関連しているという点である。海外では、基本的に無声映画で生演奏は流れるけれど、英語字幕で多少の説明がつくくらいで、誰かがその場で説明を口頭でするみたいな文化は生まれなかったようである。何も字幕が表示されない部分であれば、そこは観客が想像して物語を補うのが基本だったそう。だからこそ、チャップリンのような喜劇俳優が生まれたのだなと思った。チャップリンが出演するようなスラップスティックコメディは、無声映画であるから、いかに視覚で面白いということを伝えるかが鍵になる。だからこそ、オーバーなシチュエーションやパフォーマンスは当時はウケたのだなと思った。

一方で、日本はというと、元々落語という文化が定着していて、物語を噺家が語るものを観客が聞くという芸能が日本人に馴染んでいた。だから無声映画が日本にやってきた時も、そこに噺家に代わる活動弁士が物語を口頭で加えるという文化が自然と定着したのだと書かれていた。
これは非常に面白いなと感じていて、たしかにそう考えてみると活動弁士という文化は日本の古典芸能とも捉えられるし、落語の延長として考えればたしかにそのようにも見えてくるからである。だから日本の古典芸能を現代風に上演する「あやめ十八番」らしいのかもしれないなと思った。

きっと当時の日本人は、まるで落語を楽しむ感覚で、映画館に足を運んで無声映画の活動弁士の語りを楽しんでいたのかもしれない。そう考えると、ただひたすら事実を語るよりは、言葉選びも重要でより観客を惹きつけるワードチョイスによって話の面白さも変わってくるのだと感じた。それは、むしろ無声映画という映像だけで作品は完結せずに、楽士による生演奏や活動弁士といった彼らも創作の一員として、それらも複合した上での作品なんだと感じた。これはまるで、映画を見ているようで実は観劇に近いのかもしれないなと思った。

しかし、作品中でも登場するように、時代は無声映画からトーキー映画へと移り変わっていく。海外の場合は活動弁士という職種がいなかったから、この時代の潮流によって仕事が廃業になるみたいなことはあまり起きなかったとしても、求められる俳優像が変わったことによる混乱はあったように思える。チャップリンのようなスラップスティックコメディの俳優は、この時代の移り変わりによって自分の黄金期も終焉していく訳で、たしかKERA CROSS『SLAPSTICKS』(2022年2月)では、そのことについて描かれていたと記憶している。
しかし日本の場合は、俳優だけではなく活動弁士というそもそもの職業が消えてしまうという事態に陥ったのである。だから当時の活動弁士たちは、至るところでストライキを起こして反発した。浅草寺には弁士塚というのが残っていて、そこの石碑には当時活躍した映画弁士の名前がずらりと書かれている。時代の潮流によって仕事を失う危機感が色濃く残されている。

しかし、こういった時代の流れによる芸能・文化の変化によって職業が危機的な状況に陥るのは、形を変えて今まさに起きている。現在ハリウッドでは、俳優や脚本家たちが大規模なストライキを、NetflixやDisneyといった巨大資本を有するエンタメ企業に対して起こしている。理由は、企業側が今後AIによって安く作品を創作して世に送り出すために、AI開発に出資しようとしているからである。
巨大企業が、AIに過去の作品のデータを読み込ませて、今まで人間が創作してきたレベルで作品を無限にアウトプットできるようになってしまったら、それこそ脚本家や俳優たちは失業してしまう。そうならないように、彼らは大規模なストライキを起こしている。
そんなニュースを最近目の当たりにしているからこそ、今作のような時代の潮流に抗う活動弁士たちが本当に輝いて感じられる。観劇中、活動弁士たちを見ていると、何度もハリウッドでストライキを起こしている脚本家や俳優たちの存在が頭をよぎった。AIによって仕事を奪われてしまうかもしれないという恐怖と不安は、形を変えて過去にもこうやって存在していて、彼らはそうならないためにストライキを起こして抗ったという物語が突きつけられ、そして今の自分たちにもリンクして元気をもらえたような気がする。
だからこそ、今上演するべき演目だと思うし、今観るべき作品だと感じた。こうやって、時代に立ち向かった人々というのは過去にもいて、その普遍性に私たちは勇気づけられるのだと。

今作はその他に、非常にスタッフへの愛を強く感じる作品にも映った。活動弁士という存在が、俳優とスタッフの中間的な立ち位置だからこそ、よりそう感じたのだろう。そして楽士たちや演劇で生演奏を披露する奏者たちも、創作に関わる仲間で、彼らを見て欲しいというようにも強く感じられる作品だった。
もちろん、劇中の生演奏によってもそれを感じるのだが、私がはっと思ったのが、一番ラストのシーンである。

ラストシーンのみ、今作は現在の時間軸が描かれる。登場する役者も皆着替えてカラフルな現代の洋服を着ている。そして何やらヘッドホンやイヤホンをつけてスマホを眺めている。
そして、斎藤さんがゲーミングチェアに座って客席に対して背をむけていて、あれやこれやと指示だしをする。そして上演は終了するのだが、これは一体何を意味するのだろうか。
私はこの斎藤さんの役が最初はVtuberかなと思った。そしてスマホ画面で、皆そのVtuberの配信を見ている。しかし、それにしては斎藤さんの台詞がスタッフが話す言葉に近かった。
私は劇場観劇したが、今作は映像配信もあるのだそう。これはきっと、観客が配信で演劇を観ているが、その背後ではスタッフたちが見えないところであれやこれやと仕事をしていることを表現しているのかなと感じた。演劇の配信は裏方なしでは配信されない。そして彼らも、創作の一部を担う人材である。そしてこれは、まさに現在になって形を変えた活動弁士や楽士たちに他ならないかもしれない。活動弁士や楽士はいなくなっても、それに代わる存在が今もこうやって形を変えて仕事をしているということなのではないか。
そこには、スタッフも創作の一員であるというこを暗示したスタッフ愛というものを作品から感じられたし、活動弁士や楽士は仕事を失ったけれど、こうやって時代の変化に伴って形を変えて今も続いていることを暗示しているようにも思えた。
AIによって仕事が奪われ、脚本家や俳優たちがストライキを起こしているが、きっとAIの時代が到来しても形を変えて自分たちの職種や仕事は残っていくことを示しているようにも思えた。


↓藤原祐規さん過去出演


↓溝畑藍さん過去出演作品


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