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ミュージカル 「生きる」 観劇レビュー 2023/09/16


写真引用元:ミュージカル『生きる』 公式Twitter


公演タイトル:ミュージカル「生きる」
劇場:新国立劇場 中劇場
企画:ホリプロ、TBS、東宝、WOWOW
原作:黒澤明 監督作品「生きる」
作曲・編曲:ジェイソン・ハウランド
脚本・歌詞:高橋知伽子
演出:宮本亞門
出演:市村正親、村井良大、上原理生、高野菜々、実咲凛音、福井晶一、鶴見辰吾他(観劇回のキャストのみ記載)
期間:9/7〜9/24(東京)、9/29〜10/1(大阪)
上演時間:約2時間25分(途中休憩25分)
作品キーワード:ミュージカル、昭和、黒澤明、ヒューマンドラマ、泣ける、元気を貰える
個人満足度:★★★★★★★☆☆☆


映画界の巨匠である黒澤明さんの代表作の一つである映画『生きる』(1952年)のミュージカル版を観劇。
ミュージカル『生きる』は2018年に世界初演、そして2020年に再演されており、今回は3度目のミュージカル化となる。
作曲&編曲は作曲家のジェイソン・ハウランドさん、演出は宮本亞門さん、脚本&歌詞はフリーランスでミュージカル台本を手がける高橋知伽子さんの3人のタッグで、2018年の世界初演からずっと続投されている。
私自身、ミュージカル『生きる』の観劇も初めてである上、映画版『生きる』も未見の状態で観劇に臨み、観劇直後に黒澤明映画版をU-NEXTで視聴した。
今年(2023年)4月に上映されていたカズオ・イシグロさんが脚本を担当されているリメイク版の映画『生きる LIVING』は未見である。
また、今回の上演は主人公の渡辺勘治役が市村正親さんと鹿賀丈史さん、小説家役が上原理生さんと平方元基さんのWキャストで、私は市村さん、上原さん出演回を観劇した。

物語は終戦後の日本が舞台。
30年間も欠勤なしで市役所に勤めてきた渡辺勘治(市村正親)は、事務作業のルーティーンワークばかりを続けてきたため無気力であった。
市役所には主婦たちが押しかけて道路を整備するのではなく公園を作って欲しいと直談判しに来るが、市役所の職員たちは相手にしてくれない。
そんな中、勘治は胃に違和感を感じて病院へ向かう。
勘治は医師から軽い胃潰瘍だと言われてすぐに診察を終えられてしまう。
しかし、たまたま病院で遭遇した者の忠告にもあった通り、医師が軽い胃潰瘍だと言ってすぐに診察を終えてしまう場合は、結局入院しても命が助からなかったという医師の自分のプライドを傷つけることを起こしたくないがために診断を誤魔化されている場合であり、渡辺は自分が胃がんで余命いくばくもないと悟る。
勘治はその後、市役所を欠勤するようになって、まるで別人であるかのような行動を起こし始めるというもの。

映画を全く視聴せずに今作を観劇してみての感想は、物語の舞台は昭和の日本だが作品自体に全く古さを感じさせず、まるで現代の日本の物語であるように捉えられてとても親しみやすいミュージカルだったということ。
それは、ミュージカルが和製ミュージカルではなくオーケストラによる王道のミュージカルで構成されていること、登場人物も着物を着ている人物がいなくて洋服やスーツだったというのもあるのかもしれない。
しかし、古さを感じさせなかった一番の理由は、脚本が持っている普遍性を丁寧に、そしてシンプルにミュージカルに組み込んでいる点だと思う。
歳を取って仕事に消耗されてしまっているサラリーマンは沢山いると思うが、それは今も昔も変わらなくて、だからこそ彼らに希望を持ってもらうような元気を与えてくれるようなメッセージ性が、誰にでも分かるように分かりやすく丁寧に込められていた点が大きかったと思う。
そこをミュージカルとして落とし込む上手さに痺れた。

後で黒澤明監督の映画版を視聴したが、映画版はより暗く湿度の高い作品として仕上がっていて、この作品をよくぞミュージカルにしようと思い立ったスタッフ陣の才能に驚いた。
映画版は映画版で良さがあるが、ミュージカル版の方が万人ウケしやすい上に現代の人々に馴染みやすい形で作品として仕上げられていると感じて、比べるのも野暮だが個人的にはミュージカル版の方が好きだった。

主人公の勘治は終始元気がないので、こんな主人公がミュージカルの主役になれるのかと驚いたが、周囲の人間たちのパワーと小説家(上原理生)がある種この作品と観客を繋ぐ存在となって俯瞰的に演出されたことによって、とても迫力のあるミュージカルになっていて元気を沢山貰えた。
だからこそ、渡辺も周囲のエネルギーに感化されていってクリエイティブに行動を起こせたのかもしれないと思って、全く違和感なく観られた。

一幕60分、幕間25分、二幕60分と、かなり良心的な上演時間設定になっていてとても観劇しやすい舞台作品かなと思う。
客層も割とシニアの方が多かったように思う。
映画も観たことがなくても十分物語を楽しめるし、歌と脚本の素晴らしさから生きる元気が欲しい方にはぜひお勧めしたいミュージカル作品だった。
舞台『千と千尋の神隠し』に続いて世界でも上演していって欲しい作品だった。

写真引用元:ミュージカル『生きる』 公式Twitter

↓映画『生きる』





【鑑賞動機】

映画『生きる』は黒澤明監督の名作だし、それをミュージカルでしかも3度も上演されているとなると気になるので観劇することにした。演出が宮本亞門さんというのも注目で、実は宮本亞門さんの演出舞台を観たことがなかったので、今作を皮切りにしたいと思ったから。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

終戦直後の日本、小説家(上原理生)が登場して彼は一人の男性のことについて語り始める。その男性とは、渡辺勘治(市村正親)といい30年間も欠勤せずに市役所で働き続けた男の話で、その男の死ぬまでの半年間の話であると前置きする。
勘治は、朝決まった時間に起きてスーツに着替えて出かけていく。住まいの2階には、息子の渡辺光男(村井良大)とその妻の渡辺一枝(実咲凛音)が暮らしていた。
勘治は、市役所へ出勤してただひたすらハンコを押すだけのルーティーンの仕事を無気力でする。そこへ、主婦たちが道路を整備するくらいなら公園を作って欲しいと、市役所に直談判しに来る。主婦たちは、それなら〇〇課へ行けとたらい回しにされ、挙句の果てに公園なんか作るよりも道路を作った方が経済成長を遂げていく上で適切だろうと却下されてしまう。

勘治がこれから受けるのは、死刑判決よりも辛い判決が下る場所。余命宣告を受ける場所である。勘治は胃に異変を感じて病院へ向かう。勘治は、病院で診察を待っていると見知らぬ人に話しかけられてこう言われる。ここの医者は、自分の医者としてのプライドを傷つけないために、治らない病を治療することはしない。だからもし胃がんのような余命いくばくもない疾患が発見されたら、軽い胃潰瘍ですよと言って、多少の薬だけ出して入院させずすぐに家に帰してしまうのだと言う。
勘治は医者に診察してもらった結果、軽い胃潰瘍だと診断され、多少の薬だけ出されて家に帰されてしまう。食べ物も常識範囲で好きなものを食べて良いと。勘治は、医者に本当のことを話すようにせがむが、次の患者がいるから早く帰ってくれと追い出される。

夜、渡辺家の自宅では光男と一枝が話していた。一枝のお腹には赤子が授かったようで妊娠している。光男は仕事が忙しくていつも深夜に家に帰ってくる。一枝は、そろそろ父の勘治が定年退職するようだし、その金で家を建て替えようと言う。もし勘治がお金を出してくれなかった別居しようと、今の暮らしではいられないと言う。住まいについて、光男と一枝は揉める。
その様子を勘治は、部屋の外でそっと聞いており、二人に見つかってしまう。
勘治は、自分は30年間真面目に無欠勤で働いてたのに胃がんになってしまい、お金はあるがそのお金は今まで自分のことを顧みてくれなかった息子のために使われてしまうのかと絶望する。そして勘治は、家を出てしまう。

小説家が初めて勘治に出会ったのは、雨の日の居酒屋で呑んでいた時だった。偶然小説家の隣に勘治が座って酒を注文して飲み始めた。
小説家は、自分が小説なんて適当なものを書いてお金をもらっている分際で、市役所で勤めてきた勘治を尊敬の眼差しで見て話しかける。勘治は、自分が胃がんで余命いくばくもなくて、自分は一体なんのために生きてきたのかと吐露する。だからせめて最後だけはと、酒を自分の金で買って飲むのも初めてだと言う。
小説家は、そんな勘治に良い場所があると彼からお金を受け取って、キャバクラへと案内する。キャバクラでは、多くの派手な衣装を着た女性たちが楽しく踊っており、勘治と小説家の二人でキャバクラでダーツなどをして楽しんだ。
その後、勘治は市役所を欠勤するようになって、自分が今まで稼いだ金でキャバクラへ通うようになった。

ある日、勘治の元に市役所で働いていた若い女性の小田切とよ(高野菜々)がやってくる。小田切は市役所での仕事のルーティンワークに嫌気が差して退職することを決意、そのためにはハンコが必要なので勘治の元にやってきたのだと言う。
小田切は、ずっと市役所で仕事をしていてつまらないから、官僚たちにあだ名を密かにつけて遊んでいたのだと言う。そして勘治はミイラとあだ名を付けていたと言う。
そのまま勘治と小田切は仲良くなって、一緒に遊びまわることになる。二人で映画『風と共に去りぬ』を観にいくが、ラストシーンでも勘治は居眠りしてしまって小田切にムッとされる。
勘治が家に帰ると、息子の光男に叱られる。市役所で仕事もせずに若い女性と歩き回って金を使うなんて、父のしたことじゃないと。勘治は、息子には胃がんのことを伝えなければと思っていたが、余計に溝が深まって言い出せなくなってしまう。

小田切は、市役所を辞めて人形を作る工場で働き始めていたが、勘治はそれでも小田切と遊びたくて仕切りに彼女を誘っていた。
とある喫茶店で、勘治と小田切は会うが、小田切はあまりにもしつこく勘治が誘ってくるのでちょっと気味悪がっていた。勘治は、小田切に自分がなぜ市役所を欠勤するようになったのかを伝えた。それは、自分が胃がんで余命いくばくもないことを伝えることでもあった。小田切はびっくりして、なんでそんな大事なことを息子さんには伝えずに私に?と戸惑う。
勘治の今の心境は、小さい頃池に溺れた時と同じ感覚で、もがいても掴める場所がない感じなのだと言う。どうしたら、小田切のような活気を自分にも取り戻すことが出来るのだろうかと問う。その時、小田切はポケットから一匹のうさぎの人形を取り出す。小田切はこれを作ることで、日本中の子供と繋がれている気分になれて楽しいのだと言う。だから、勘治も何か作ってみたら生きる希望が見えるのではと言う。丁度その時、近くの席では女子生徒たちが誕生日ケーキで一人の誕生日を祝っていた。

ここで幕間に入る。

小説家は、観客に問いかける。生きる希望を見出した勘治は数ヶ月後に死ぬが、それまでの彼はどんな行動を起こしたのか見ていこうと。
勘治は、それまでずっと欠勤していたが急に市役所に戻って、三徹して公園を設置する企画書を書き上げる。そして、助役(鶴見辰吾)に提出する。市役所の人間たちは大笑いする。こんな企画書では、公園は作れる訳がないではないかと。しかし勘治は粘り強く交渉し、どんな場所にでも姿を現して企画書を突きつけてくる。

勘治は、公園を設置したい場所にやってきて、色々と企画書に沿って設計を始める。
そこへ、組長(福井晶一)率いるヤクザたちがやってくる。ここは自分たちの縄張りだと、勘治たちを追い出そうとする。

助役とヤクザの組長は密かに繋がりを持ち、親睦関係があった。それを小説家はカメラに収めてスクープとした。
主婦たちは、勘治たちが公園を作ろうとしていることを聞きつけ応援した。そして中央の大きな時計の針は回って時間が経った。

勘治の葬式になる。市役所の職員たちや家族が参列する。勘治が亡くなったのは、丁度公園が完成して開放される1日前で、夜に雪の中ブランコに乗りながら倒れて亡くなったと言う。
市役所の人間たちは、あの公園が完成したのは助役たちのおかげで諸々の費用などの手続きをしたからだと言う。
そこへ、主婦たちや小田切が勘治の葬式に参列したいとやってくる。主婦たちは、勘治のおかげであの公園が出来上がったのだと主張する。
さらに、小説家も葬式にやってくる。息子の光男が、自分は勘治が胃がんであったことを聞いてなかったから、偶然その疾患が発症して倒れたのであって、公園を作ることとは無関係であると話した。
それに対して、小説家は光男の言うことを否定し、勘治は自分が胃がんであったことを知っていて、公園が完成したら話そうと思っていたと告げた。

そして小説家は光男に、勘治が亡くなる直前の雪が降る夜の中、ブランコを漕ぐ勘治の姿を見せる。
勘治は、ブランコを一人漕ぎながらゴンドラの唄を歌う。光男は泣き崩れる。ここで上演は終了する。

黒澤明監督の映画版と比べると、勘治の過去の人生の回想などはカットされて、よりシンプルな構成になって分かりやすくアレンジされている印象を受けた。
ただ、一番映画版との変更点が大きかったのは、後半の勘治が公園を作ろうと決意してからの話。映画版では、そこからすぐに勘治の葬式シーンに飛んで、そこで人々が回想することで公園設置に奔走した勘治を描いていたが、ミュージカル版では時系列順に描いている。そうすることで、映画の映像的なギミックによる面白さを削って、よりシンプルに勘治が公園設置に尽力して能動的に行動して生きる意味を見出している姿を描いていたので、ミュージカル版ではこのやり方の方が上手く行っていたのではないかと思った。個人的には、映画版でなぜ物語後半では時系列を逆にして回想する形でストーリーを描く必要があったのか、上手く言語化出来ていないので、むしろミュージカル版の方がしっくりいった。
勘治が、過去に若くして奥さんを亡くしていたり、息子を戦争に送り込んでいたというエピソードはしっかりとミュージカル版では述べられていないので、勘治が今までどれほど苦労してきたか、その苦労が全く人生に還元されていない感じの描写はミュージカルだと弱かったのだが、私はそのシーンがなくても違和感なく楽しむことが出来た。
そのため、個人的にはミュージカルを観てから映画を観るという順番で一番楽しく観劇、視聴出来るんじゃないかと思っている。観劇で今作の魅力を感じて、映画でディテールを拾いに行くことでより作品を楽しめるような気がした。

写真引用元:ミュージカル『生きる』 公式Twitter


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

いかにも昭和の日本といった感じのレトロな舞台美術と、終戦直後という日本がまだ混迷の時代にあった薄暗さが漂う世界観がとても素晴らしかった。だが、そういった薄暗さが世界観にあっても、上手く現代のオーケストラによるミュージカルと、キャバクラの描写に代表されるような派手でオシャレな美術も映えていたので、全く古臭さを感じさせない万人ウケしやすいミュージカルに仕上がっていて、流石は宮本亞門さんの演出だった。
舞台装置、映像、衣装、舞台照明、舞台音響、その他演出の順番でみていく。

まずは、舞台装置から。
ステージには巨大なパネルが2枚設置されていて、このパネルが映像を映し出すスクリーンとして機能したり、パネルの奥側にセットされる舞台装置の転換を隠す壁としても機能していた。
舞台装置はシーンによって様々なセットがステージ上で披露される。一番最初の勘治の自宅の舞台装置は、1階に和室が一つあってそこには勘治の妻の仏壇もあった。そして階段が据え付けられていて、2階は光男と一枝の寝室になっていた。この2階構造の舞台セットがシーンによって回転しながら上演される仕掛けが面白かった。
市役所のシーンの舞台セットも良かった。ステージ上に所々置かれた古びた木造の職員用のデスク、あの質感が昭和を感じさせられて好きだった。また、本棚に沢山書類が詰め込まれた感じの舞台セットもレトロな感じがして好きだった。映画版のように、机の上に書類が沢山並べられていて、無意味な多忙を表現しても良かったと思うが、ここはおそらく何度も机を移動させないといけないので、機能的に紙を机上に置きにくかったのかなと思った。そうではなく、その無意味な多忙さを本棚に詰め込まれた書類で再現したのは秀逸だった。
そして、物語序盤から終盤まで、ステージ中央の天井に吊り下げられている巨大な時計の文字盤。私は、あの時計の針が動き出すまで映像だとは思っていなかった。勘治が公園を作ろうと一念発起してから時計の文字盤が動き始めたのは、まるでその時計が勘治の心情を反映しているかのようで、公園を作ろうと決意して行動的になったことで、彼の今まで止まっていた時間が動き出したのかもしれない。
キャバクラシーンの舞台セットもカラフルでオシャレで好きだった。昭和時代のストリップショーといった感じが漂っていて映えていた。
映画館の『風と共に去りぬ』の電光掲示板もレトロでとても好きだった。あんな感じのレトロな映画館に私も行ってみたい。
第二幕のシーンで、公園を建設する場所の舞台装置、下手側には建物があって、奥には上手側から下手側に向かって橋がかかっている。これは、黒澤明監督版の『生きる』で公園が設置されたロケ地に似せて作られていて、映画へのリスペクトを感じられた。
勘治の葬式のシーンも、鯨幕や御霊前のセットの仕方、葬列者の位置関係も映画に寄せて作られていて再現度が高かった。黒澤明監督映画好きにも優しい演出のような気がした。
そして、ラストシーンのあの有名なブランコのシーン。天井から紙吹雪が降る中寂しそうに勘治がブランコに乗りながらゴンドラの唄を歌うシーンが最高だった。映画の内容は知らずとも、このシーンは有名だし映画のジャケットにも使われているので知っていたが、この場面がステージ上に登場しただけで鳥肌が立った。見事なラストシーンだった。その光景を見て、息子の光男が泣き崩れるシーンが本当に胸を打たれた。

次に映像について。
映像は大きく分けて二つあって、一つはステージ手前側にセットされている2枚のパネルに映し出される映像と、ステージ最背面にセットされているスクリーンに情景を映し出す形で投影される映像。
一つ目は、主に「ミュージカル『生きる IKIRU』」と大きく赤い文字で書かれた映像が象徴的で、開演、幕間、終演時のその映像のインパクトが大きかった。また、劇中では勘治が雨の中始めて自分のお金で居酒屋で酒を飲むシーンで、雨を映像を使って描写していた点が雰囲気を出していて良かった。あの雨は勘治の心情を表す象徴的な雨で好きだった。
もう一つは、昭和の田舎の電信柱が沢山立っている風景に夕日が沈む感じの映像が映し出されていて、あの昭和っぽさがとても好きだった。

次に衣装について。
まずは、勘治をはじめ市役所の職員たちのスーツのデザインがとても好きだった。映画版では、昭和の官僚のおっさんたちといった感じを物凄く受けたのだが、ミュージカル版ではレトロなスーツをオシャレに着こなしていて、映画版と若干差を出しているあたりが凄く好感度高かった。ミュージカルではむしろファッションに舵を切っていたのが功を奏していた気がする。メガネのレンズが大きい感じも凄くレトロな印象を受けて良かった。
あとは、高野菜々さんが演じていた小田切とよの衣装を、黒澤明映画版では普通の会社員の女性といった感じの田舎娘感があって冴えなかった(悪い訳ではなく映画の世界観ではマッチしていた)が、ミュージカル版では赤い衣装の派手な女性に仕立てることで映える演出が素敵だった。たしかにこうすることで、生きる希望を見出せない暗くどんよりとした勘治とは対照的に、うさぎの人形を作るというクリエイティブを通じて生き生きとしている姿を上手く演出していた気がする。その映画からの変更点の演出が良かった。

次に舞台照明について。
ミュージカルだが、照明自体は全体的に暗めのものが多かった印象である。唯一派手だったのが、キャバクラのシーンくらい。天井からぶら下がっているピンクやら黄色やらの蛍光色の飾り物が光っていて、レトロでオシャレな演出によって彩があったくらいで、他はどんよりと暗い照明が多かった。なのに、オーケストラと役者たちの素敵な歌声によって、ここまで明るいミュージカルに出来るって逆に凄いと思った。
あとは、勘治が公園を建設しようとする場所に、ヤクザたちがやってきて取っ組み合うシーンの派手な照明演出も格好良かった。
そしてなんといっても、ラストの勘治がブランコに乗るシーンで、白い月の光がブランコに当たるなんとも寂しい演出がまた舞台上に映えていて素敵だった。
一つ気になったのは、たしか雨のシーンで車のランプらしきものが客席後方から照らされる?演出。客席の誰かがスマホの明かりをチラつかせるような感じに思えてしまって、ちょっとノイズのように感じてしまった。

次に舞台音響について。
オーケストラによる演奏がとても素晴らしかった。東宝ではなくホリプロのミュージカルだなという感じも良かった。東宝のミュージカルはどこか音楽に力強さがあって、圧強めの演奏に感じることが多々あるが、一方でホリプロには音量的にも心地よくてメロディにもどこか優しさを感じられる。そんな曲調が、日本を舞台にした脚本にはハマっていた気がする。
誰かのソロパートが、熱唱する形で繰り広げられるシーンは少なく(たしか)、どちらかというと一人語りだったり会話を歌に乗せて説明する感じで語りかける形で歌われるシーンが多かったので、東宝ミュージカルのように圧で迫ってくるミュージカルではなく、ミュージカルの中でも比較的ストレートプレイに近い形で演出されていたのも良かった、だから観やすかったのもあると思う。
かといって、「こまつ座」に代表される井上ひさしさんの作品のような和製ミュージカルにはなっていなくて、だからこそ古臭さも感じさせず現代の観客に親しみやすいミュージカルに仕上がっていたのだと思う。
効果音だと、雨の音が心地よかった。あのしとしとと音がする雨の降り方が作品の雰囲気と合っていた。

最後にその他演出について。
観ていて一番気になったのは、第一幕ラストの小田切が作っているうさぎの人形を見て、勘治が生きる希望を見出す喫茶店でのシーンで、喫茶店の2階で女学生たちがハッピーバースデーと歌いながら一人の女学生に誕生日ケーキを振る舞っているシーン。黒澤明映画版未見で、初めてミュージカルでこのシーンを目の当たりにした時に、この演出の解釈が全く分からなかった。黒澤明映画版を観て少し理解し、映画の考察サイトを色々読んでようやく理解した。これはおそらく、生きる希望を失った勘治の絶望を1階という階段を降った場所で描き、誕生日を祝ってもらえて活気に満ち溢れている女学生を2階へ階段を上がらせることで対比として描きたかったのだと思う。正直、この演出は黒澤明監督の映画版だったからこそ成功していて、これをミュージカルでやったら初見の観客は私と同じように混乱するのではないかと思った。今までずっとメタファー的に出現するシーンはミュージカルではなかったなずで、映画ではあったかもしれないけれど、ちょっといきなり過ぎる気がした。きっとこれは、黒澤明監督作品へのリスペクトとして残したのだろうと思うが、凄く難しい所だが無理にミュージカルに入れなくても良いのではと思った。
このミュージカルで構成が秀逸だなと思う点として大きいのは、小説家の存在。黒澤明映画版では、居酒屋に来た勘治をキャバクラに連れ出すくらいしか登場しないが、ミュージカル版ではこの小説家が非常に重要なポジションとして描かれている。小説家がある種今作のナレーションみたいに、作中の渡辺勘治と観客とを繋ぐ重要な役割を担っている。そうすることで、小説家が自ら渡辺勘治についての小説を執筆するかのように彼を語って物語にしていて、それを観客が観ているという構成になっている。そこが、勘治と私たちが生きる時代が違うからこそ、小説家が仲介して入ってくれることで繋いでくれる感じが良かった。
また、ラストの息子の光男に小説家がブランコでの勘治の最期を見せるという演出構成も素晴らしい。これは、映画では絶対できない演劇だからこそ成立する構成だと思う。時間軸をシームレスに描ける演劇の特性を上手く使ったシーン作りで個人的に好きだった。

写真引用元:ミュージカル『生きる』 公式Twitter


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

ミュージカル俳優メインの役者陣で、非常に安定感のある演技と歌のパフォーマンスだった。メインキャストたちも去ることながら、アンサンブルキャストたちも良い味を出していた。
特筆したいキャストについて記載していく。

まずは、主人公の渡辺勘治役を演じた市村正親さん。実は、市村さん出演のミュージカルを拝見するのは初めて。
勘治は、ずっと市役所勤めで活力を失っており、追い討ちをかけるかのように胃がんにかかったと悟って余命いくばくもないと気づいている中年男性。こんな主人公がミュージカルの主人公になるのかと驚くが、そこをしっかりと演じ切って作品として成立している点が凄い。
下手に勘治のソロパートを沢山作って、彼に歌わせてシーンを進めていくのではなく、あくまで小説家がストーリーをドライブしながら進んでいくので、これがまた上手い演出になっている。あまり勘治が自分で喋らないことで、活力のなさをミュージカルシーン内で表現しているし、だからこそ公園を作ると決意して行動する後半シーンが映えた気がする。
また、ラストのゴンドラの唄がとても良かった。あの歌い方がなんとも涙を唆られる。
昭和レトロなスーツも非常によく似合っていて、これほど勘治役が似合うミュージカル俳優はいないのではと思った。鹿賀さんの勘治も観てみたいと思ったが、市村さんで観られて良かった。

次に、小説家を演じた上原理生さん。上原さんは、ミュージカル『ミス・サイゴン』(2022年8月)のジョン役で一度演技を拝見している。
さすらいの小説家という感じがあって、非常に格好良くて好きだった。特に衣装が格好良くて、黒い帽子を被って無精髭を生やして、いかにも怪しげではあるけれど、非常に良い人でいつでも勘治の味方でいてくれる感じが頼もしかった。

渡辺光男役を演じた村井良大さんは、音楽劇『スラムドッグ$ミリオネア』(2022年8月)やこまつ座の『きらめく星座』(2023年4月)で演技を拝見している。
今回は、光男役ということであまり出番はなかったのは仕方がないのだが、村井さんはキャラクター的にも面白い役を巧みに演じてくれるので、少々勿体なく感じた。もっと見せ場が欲しかった。
でも、普段深夜までずっと残業していて、妻は妊娠中、妻は住まいを変えたがっていて揉めてしまうみたいな若き夫婦の場面は、妻が妊娠している以外は自分の今の境遇とも重なる部分があって凄く心打たれた。

個人的に今作で注目したのは、小田切とよ役を演じた音楽座ミュージカルの高野菜々さん。
私自身、高野さんのことを今回の観劇で初めて知ったが、非常に明るくて華やかで舞台上で映えていて良かった。たしかにこんな女性がいたら勘治も魅力的に感じて惹かれてしまうよなというのも頷けた。このミュージカルを皮切りに、東宝ミュージカルなど様々な大型ミュージカルに抜擢されて欲しいと思ったし、またどこかのミュージカルで観たいと思った。

写真引用元:ミュージカル『生きる』 公式Twitter


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

今作の観劇は、客層は見渡す限りシニアの方々がやや多い印象を感じて、そのシニアの方々も夫婦で観劇に来られているのが多かった印象である。それもそのはず、今作の主人公は中年男性、ずっと仕事を頑張ってきてにも関わらず、病気は見つかって先は長くないし、結局自分で稼いだお金は子供たちに使われてしまう。一体、自分の人生とは何だったのかと生きる希望を失っている男性なので、サラリーマンをずっとやり続けて、現状に生きがいを見出せていないというシニアの人に刺さるのかもしれない。
上演時間も、第一幕も第二幕も60分と短めに設定されていて、非常に腰に優しいスケジュールになっている。休憩も25分間もある。もちろん、舞台セットの準備に時間がかかりそうなので、そのくらいの休憩を裏方としても必要とするのかもしれないが、それでもその上演時間には、かなり観客に対して良心的な設定だと言える。
だからこそ、より多くのシニアの方に観て欲しいミュージカルとして作られているのかなと感じた。ただ、もうすぐ30歳を迎える私にとっても、非常に心動かされるし、刺さる台詞やシーンも多かったので十分に楽しめた。シニアの方だけではなく、万人にウケるミュージカルだったと思う。
ここでは、この作品が導き出した「生きる希望」の一つのアンサーについて考察する。

渡辺勘治が小田切に君はどうしてそんなに生き生きしているのかと尋ねられて、うさぎの人形を見せていた。そして小田切は勘治に何か作り物をしたら良いのではないかと提案する。
そこから勘治は、公園を作ろうと決意する。つまり、勘治は「クリエイティブ」から生きる希望を見出したのである。
この生きる希望へのアンサーは、きっと作品の創作者からすればとても共感する部分だと思うし、私自身も非常に納得させられるアンサーだと思っている。「クリエイティブ」というのは、作り物に対して自分を反映させることができる。そして、それによって出来上がった成果物は人々に喜びと感動を与える物であったりもする。だから「クリエイティブ」をするということは、生きがいに繋がるのだろうなと思った。

私自身も、普段の仕事でも趣味でも日々何かをアウトプットしているから楽しいと感じられるのかもしれない。自分で頭を使いながら試行錯誤して一つのものを一から作り上げていく。そこには自分を反映させることが出来る。もちろん、仕事となると100%自分の意志をそこに反映させることは不可能だが、ある程度は反映できる。趣味ならなおさら反映刺せることが出来る。
それによって、人に見てもらって、使ってもらうことでやりがいを感じるから生きがいに繋がる。その好循環が「クリエイティブ」という行為には秘められている。

きっと舞台関係者たちも同じ気持ちなんじゃないかなと思う。演劇を作る、ミュージカルを作るという「クリエイティブ」によって、人々は生きがいを見出せるから。自分を発揮出来るから。人に認めてもらえるから。だから刺激的な行為なんじゃないかと思う。
そういった「クリエイティブ」という行為を肯定してくれる名作だからこそ、今でもこうやって多くの人に親しまれている作品であるし、ミュージカルにだってなるんじゃないかと思う。
「クリエイティブ」が最も人間らしい行為で、生きがいややりがいを与えて生き生きさせてくれるというのは、今も昔も変わらなくて、だからこそ普遍性を持った作品になり得るんじゃないかと思った。

今も昔も、事務作業は同じことの繰り返しで、むしろルーティーンな仕事は効率化された社会だから尚更今の社会にも残っているんじゃないかと思う。でもそれでは、人間らしさは死んでしまう。
「クリエイティブ」は、そんな仕事は真逆の行いで自分を反映出来て人に認めてもらえるものだからこそ、生きる目的を失ったときに大切に出来たらきっと勘治のようにその後の人生を変えられるのかもしれない。私も、今出来る「クリエイティブ」なことを大切にして人間らしく歳を取っても生き生きとした暮らしをしたいなと思う。

写真引用元:ミュージカル『生きる』 公式Twitter


↓黒澤明監督舞台作品


↓上原理生さん過去出演作品


↓村井良大さん過去出演作品

↓映画『生きる』


↓映画『生きる LIVING』


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