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【ネタバレ】『天気の子』評 ライ麦畑とかえるくん

前作『君の名は。』でおなじみの監督・新海誠、プロデューサー・川村元気、そして劇伴を務める RADWINPS らが再び手を組むことでヒットの方程式が明確に打ち出された『天気の子』。

汚らしく雑然とした東京の街並みをそれでもなお美しく描いた背景美術を土台にしてモノローグと音楽がボーイ・ミーツ・ガールを駆動する。徹底された演出が我々観客の感情を場面場面に相応しい場所に、まるでジェットコースターのレールのように導いてくれる。

新海誠監督の美しい背景に RADWINPS の音楽が鳴る時、我々の注目はこの演出に自分はのれるか、この物語が自分向きのものか、そしてその結末を我々は肯定できるかどうか、そういった点に向けられる。ボーイ・ミーツ・ガールの物語は「数多の映画で語られ尽く」されている。そのような物語を数多く見聞きしてきた方なら『天気の子』のボーイ・ミーツ・ガールにも別の物語への分岐点を認め、周回プレイをしている感覚に陥るだろう。

しかし映画の中で語られることはボーイ・ミーツ・ガール、帆高と陽菜の物語だけではない。

たとえば帆高がネットカフェに寝泊まりする場面で登場する小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。J・D・サリンジャーによるこの小説は主人公・ホールデンが社会の欺瞞に背を向けながら純粋なものを求め彷徨う物語だ。

まるで東京をあてどなく彷徨う帆高の行く末を暗示するようだが、しかし『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はボーイ・ミーツ・ガールがテーマの物語ではない。ではこの小説が登場した意味はどのように取れるのか。

この文章は登場人物の 1 人である須田を例に挙げ、ボーイ・ミーツ・ガールを受け入れがたい観客――あるいは『天気の子』の物語に無数の分岐点を観る観客に対して、ボーイ・ミーツ・ガールではない視点を提示する試みだ。

須賀は映画の冒頭で帆高と最初に出会い、そしてクライマックスでも重要な役割を果たす人物だ。しかし須賀にとっては帆高と陽菜のボーイ・ミーツ・ガールは自分の人生の脇を流れる別の物語にすぎない。須田には大恋愛の末に結ばれた妻と死別した過去、そして彼女の忘れ形見である娘を引き取るという人生がある。この須賀の立ち位置はこの映画の演出に乗り切れずに鑑賞する我々と、あるいはその演出故に枝分かれする無数の変奏を幻視する我々とよく似ている。

須賀は狂言回しでありつつ、優柔不断で煮え切らない人間として描かれる。帆高が家出少年であることに勘付いていながら名刺を渡し、訪ねてくれば仮住まいを提供する。一方で行政と厄介事になりそうになれば帆高を追い出す。伝承についての記事を企画しつつ、あくまでエンターテイメントという冷笑的なスタンスを崩さない。喘息持ちの娘との面会を心待ちにしながら、自棄を起こして禁煙を破る。指輪を触る仕草が何度も差し込まれ、過去を引きずっていることが示唆される。クライマックスでは涙を流した末、警察に保護を任せれば良いものの帆高の前へあらわれて、それでも須賀は自分がどうしたいのかハッキリせずにいる。

そんな須賀に対して帆高が向けた銃口は銀幕のこちら側、帆高と陽菜の物語は数あるボーイ・ミーツ・ガールのうちの一つと様々な分岐を空想しながら鑑賞する我々の方まで向いている。

須賀は警官に殴りかかったときには自覚していたはずである。揉め事を起こすことは自分のためにならないと。それは娘に会えなくなることを意味すると。それでも須賀は帆高を行かせ、その結果を――帆高を捕まえ食事とビールをたかり名刺を渡した責任を引き受けるのだ。須賀は帆高に警官が触れるのを看過できなかった。帆高が船から落ちるのを拾い上げたように、須賀は無垢なるものが傷つくことを無視できるほど煮え切ってはいない。その意味で彼はライ麦畑の捕まえ役に相応しい。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のクライマックスはホールデンが「正気じゃないみたいにどっと」降り出した雨に打たれながら、回転木馬で遊ぶ妹のフィービーを眺めているとやみくもにハッピーな気分になるというものだ。妹のフィービーこそ無垢の象徴として帆高と陽菜に重なり、ホールデンは須田に――そしてなんであれば『天気の子』を唯一つのボーイ・ミーツ・ガールとして楽しむ若者を眺めてみたいと感じる我々と重なる。

須賀にとって世界は最初から「狂っている」。そもそも陽菜が力を授かる以前から東京に雨は降り続いていた。社会的な関係性の網から零れ落ちそうな少年少女が自らを犠牲に世界を変えるという物語を須賀は信じてはいない。二人にしてみれば「世界の形を決定的に変えてしまった」選択も、彼の視点からは世界の形が変わらず元に戻っただけのこと。他の誰が変えても良かったものが変わらなかっただけだ。変わらなかった現実を引き受けるのも、その現実に存在する社会の役割だ。

東京が災害にみまわれるという話の造りでどうしても思い出してしまうのが、村上春樹作『かえるくん、東京を救う』である。

ある日、片桐が安アパートに戻ると、部屋で1 匹のとてつもなく大きな蛙が待っていた。蛙はかえるくんと名乗り、3 日後に東京を直下型地震が襲うと告げる。片桐はかえるくんと共に地震の原因、みみずくんに立ち向かう……。

『かえるくん、東京を救う』は阪神・淡路大震災を受けて書かれた連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』に収録の小説だ。作中でも阪神・淡路大震災についての言及がなされ、また東日本大震災の折にはラジオでも朗読がなされた。片桐とかえるくんが東京を救った構図に当てはめれば、『天気の子』は帆高と陽菜が東京を救わなかった物語だ。

かえるくんと天気の子が、雨の降り続ける東京と直下型地震に襲われなかった東京が重なるときに阪神・淡路大震災は何と重なるのか。たとえば平成 30 年 7 月豪雨災害だ。西日本を中心に発生したこの豪雨災害は死者 200 人以上を数え、今なお 4000 を超える人々が仮設住宅で暮らしている。

もちろん新海誠監督が構想を始めた段階では平成 30 年豪雨は未だ発生しておらず、この映画の制作意図にそのような文脈は含まれていない。しかしそれでもなお、そのような線を引く余地は残っている。

無垢な少年少女は拾い上げられ、世界は狂っている。現実はそこを生きる人々が引き受けるべきものだとするなら。引き受けるとはなにか、募金をすることか。それも良いがそうではない。

村上春樹は『はじめての文学 村上春樹』収録の『かえるくんのいる場所』という文章の中で『かえるくん、東京を救う』の執筆に至った理由を以下のように述べている。(残念ながらこの本については所持していないため以下の記事から孫引きをしている)

「そのような多くの人々の死にかかわる重い題材に、何年ものあいだ作家としてとりくんできた。そんな中で僕は、このようなひどく現実離れのした、ある意味では荒唐無稽なファンタジーを書かないわけにはいかなかったのだ。現実から目を背け、どこかに逃避するということが目的ではない。むしろ逆で、今ここにある現実にもっと深く突っ込んでいくためには、物語という通路を使って、このような心の「とくべつな領域」に下りていく必要がどうしてもあったのだ。それはかえるくんが実際に住んでいる領域である。」(前掲書「かえるくんのいる場所」267頁より引用)

死者 200 人以上・仮設住宅暮らしが未だ 4000 人、という情報だけでは我々は今ここにある現実に深く突っ込んでいくことはできない。かえるくんが実際に住んでいる領域、心の「とくべつな領域」に下りていく必要がある。それは想像力の世界であり、物語の力だ。

我々は映画館を出た後の空を見上げ、雨の降り続ける東京やそこに覗く晴れ間を思うことができる。天気の子とかえるくんを、雨の降り続ける東京と直下型地震に襲われなかった東京と現実の東京を重ね合わせ、阪神淡路大震災と平成 30 年 7 月豪雨災害、そして世界中の災害や問題――それは不景気や漠然とした不安なのかもしれない――に思いを馳せる事ができる。

それは生活を劇的に変えるものではないかもしれない。しかし信じていなくとも物語は我々の認識を少しズラし、我々を通じて現実すら変えてしまう。

『かえるくん、東京を救う』の中でかえるくんは、平凡で何のために生きているのか、その理由もよくわからないと言う片桐に対してこう答える。
「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」
『天気の子』は前作『君の名は。』を超える動員ペースで好スタートを切った。我々は世界の形を変えても良いし変えなくても良い。その現実を引き受けるのは我々自身だ。

期せずして爆発と銃撃があったのでメキシコです。嘘です。

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