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<映画評>黒沢明の残り火としての『乱』

 『乱』について、私たちは様々な期待を抱いてきた。それは、かつて『七人の侍』を頂点とした黒沢時代劇の、ダイナミズムと面白さをさらに倍増したものとしてのイメージである。しかし、結論から言うならば、あくまでもイメージとしてのみ、これらの期待は生きえたのである。

 『乱』を黒沢が構想したとき、その製作はほとんど不可能と言われていた。その当時、評論家や映画雑誌の紹介などでは、『乱』はシェイクスピアの『リア王』をモデルにしてた、二つの城が城対城で攻防戦を行う、「七人の侍」の規模と面白さを何倍にもしたもの凄い大型時代劇と宣伝されていた。それはまさに、『用心棒』と『椿三十郎』が『蜘蛛巣城』で暴れまくるようなものに思えていた。

 そして、あの黒沢が作るこれほどの映画に対して、膨大な資金を出す者などいない、少なくともこの日本にはいないのかと、黒沢派の評論家やファンは声を大にして嘆いていたのである。そしてこの嘆きには、黒沢が絶対に面白い映画を作るだろうという信頼と、しばらくこの巨匠の新作を観ていないことへの待望が込められていたのだ。

 しかし、それはあくまでもその製作が実現不可能であることを暗黙の前提にしていたのである。またこのイメージは、前作『影武者』において既に崩壊していたのだ。いうなれば、黒沢は引退した映画界の巨匠として珠玉の作品群に取り囲まれながら、日本映画界への文句を言っていれば良かったのだ。そして、ああもう一度黒沢に映画を撮らせたいなあ、と私たちが勝手にイメージしていれば良かったのだ。

 それが、期待に反して、見事なまでの醜い現実の姿を現してしまったのが、『乱』だったのである。

 だから、私を含めて、『乱』に対して『影武者』以上の良い評価を期待したものは少なかっただろう。それは、失敗に終わった興行成績に如実に表れている。そして、『乱』は城の攻防戦やダイナミックな騎馬戦という、確かに大きな見せ場があったのにも関わらず、『七人の侍』には遠く及ばない、わずかばかりの感動しか与えられなかったのである。

 しかし、改めて問うが、こうしたことは一体なぜなのだろうか。私たちの期待が大きすぎたためだろうか。黒沢自身が衰えたためだろうか。時代が変化したためだろか。俳優のせいだろうか。三船敏郎や志村喬がいないせいだろうか。原田芳雄や松田優作を使えば良いのだろうか。白黒からカラーになったせいだろうか。

 わからない。私には答えが見つからないが、『乱』は私たちが黒沢に対して『七人の侍』を頂点として抱いていた幸福なイメージに、哀しい終止符を打ったことだけは確かなようである。

(後記)
 本稿は、『乱』が1985年に公開された直後に書いたものである。その後年月が経ったためか、以下に引用した各ウェブサイトでは、比較的高い評価を受けていることがわかる。また、実際に高い評価をした評論家がいたことが記載されている。そのため、上述の私の論考とは全く正反対の結果となっているが、そのことを持って私のこの古い公開直後の論考を変える気持ちはないし、また変える必要はないと考えている。

 なぜなら、『七人の侍』を黒沢時代劇の最上の作品とすれば、『乱』は、『用心棒』・『椿三十郎』・『蜘蛛巣城』・『隠し砦の三悪人』と比べて評価が低くならざるを得ず、また『影武者』にも劣るものであったと、私は思っている。その最大の理由は、脚本である。


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