見出し画像

紫がたり 令和源氏物語 第四百三十九話 幻(八)

 幻(八)
 
五月雨の頃になると、じめじめとしたこの国特有の風土に気が滅入るもの。
源氏は変わらずに手紙の供養を続けておりましたが、このような気候ではどうにも清々しく送ってやれぬものだ、と無為に過ごしがちになっておりました。
そんな雨間に十日ほどの月が華やかに差し昇りました。
花橘の芳香が漂う静かな宵です。
昔このような宵に花散里の姫を訪ねたことがあった、と源氏が感じ入って懐かしんでいると、夕霧が二条院を訪れました。
「父上、いかがお過ごしですか?」
「まぁ、深山に籠るつもりで俗世から離れるように身を律して慣らしているよ。最近では勤行三昧でそんな生活も悪くないと思うようになった」
「そうですか」
夕霧は父が近々世を捨てられるのだと少しさみしくも思いましたが、勤行痩せした面立ちに迷いはないようなので、これも世の定めと思うより他はありません。
「そういえば北の方(雲居雁)が三条邸に戻られたと聞いたが」
「はい。私も思うところがありまして、いつまでも意地を張っていてはつまらぬこと、とこちらから折れることに致しました。男としてはみっともないと父上にはお叱りを蒙るでしょうか?」
「いや、男というものはなかなか素直になれない生き物なのだ。そこで意地を張り続けると取り返しのつかぬことになるやもしれぬ。お前は賢明な選択をしたのだよ。私は紫の上を喪ってこの世の無常さを思い知った。いつともなく儚いものであるならば夫婦睦まじいほうがよい」
夕霧は雲居雁に手紙を送り続け、心が解けるまで己のまことを訴え続けたのでした。雲居雁はそんな夕霧に昔そのものの誠実さを見出したので、三条邸へと戻ったのです。
今では月の半分をきっちりと分けて三条邸と女二の宮を訪れる生活を送る夕霧はまさに律義者といいましょうか。

夕霧は赤面ついでに思うところを父に話してしまおうと考えました。
「じつは紫の上さまは私の憧れの君でございました」
「それはいつぞやの野分のあった日のことか?」
「ご存知でしたか」
「お前がわざとらしく咳払いをしていたのでな。のぼせているような様子も気になったのだ」
「私はあのように美しい御方を初めて見たのです。まるで春の女神のような麗しさに目を瞠りました。そして、なぎ倒された木々をどうにかしようと立ち騒ぐ女房たちを怪我をしてはならぬから、と諌めておられました。植物は人が思うよりも強いのだ、と生命力を信じられているのが慈愛に満ちた菩薩のようで、芯の強い御方なのだと感銘を受けました。なによりその気高い御声が今でも耳から離れません」
「そうか、紫の上らしいことよ。あの人は何事にも鷹揚で思い遣りのある無垢な人だったからな」
そうして笑う源氏は昔のような若々しさを取り戻したようでした。

「そういえば、今日こちらに参った用事をうっかり忘れるところでした。そろそろ紫の上さまの一周忌の準備を始めなければならないと思いまして」
「もうそんな時期であるか。仰々しくする必要はないが、紫の上が人に描かせていた極楽曼荼羅を供養するのがよかろう。後はすべてお前に任せる。紫の上に相応しいよう取り計らっておくれ」
「かしこまりました。心を尽くして勤めさせていただきます」
夕霧は源氏が信頼してすべてを任せてくれたのを嬉しく感じました。

「お前にもうひとつ頼みたいことがある」
源氏は近くの文机から袱紗にくるまれた笛を取り出しました。
それは柏木が生前愛用したあの名笛でした。
「薫はお前の大切な弟だ。私に代わり、あの子を見守ってほしいのだよ。そして立派な青年に生い立ったらこの笛を薫に渡してほしい。これは薫が受け継ぐべきものなのだ」
源氏の顔は穏やかで、もはやなんのわだかまりもないようです。
「これからはお前が国を動かしてゆく時代だ。子も多くあることだし家門を任せるに相応しい男となった。頼んだぞ、夕霧」
夕霧は一人前の男として、一族の長として認められ、長年の願いであった言葉を頂けたものの、それはこの父がもう世を離れる時であるのだと悲しく、込み上げてくる涙を隠すように深々と頭を垂れました。
「父上、御言葉を胸に刻みます。ゆめゆめ違えぬよう励みます」
一門のことはこれで心配はない、源氏はふと肩の力が抜けるような安堵感を覚えました。
これからは心置きなく紫の上を偲べる、と。

なき人をしのぶる宵の村雨に
    濡れてや来つる山ほととぎす
(紫の上を想い懐かしむ私の元へ、山ホトトギスが村雨に濡れてやってきたようだ。ホトトギスよ、それは私の涙だろうか)

夕霧は込み上げる涙を堪えて返しました。

時鳥君につてなむ故郷の
    花たちばなはいまぞ盛と
(冥府に通うというホトトギスよ。あの麗しい御方に伝えておくれ、懐かしい地上の花橘が今を盛りと咲き誇っていると)

六条院を離れる車の中で夕霧は声を殺して泣いておりました。
どうにも村雨がわびしくて、嗚咽を禁じ得ないのでした。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?