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「オケバトル!」 24. 指揮者は指揮棒を放り投げ、コンマスはヴァイオリンを投げ出しはしなかったが……


24.指揮者は指揮棒を放り投げ、コンマスはヴァイオリンを投げ出しはしなかったが……



「大衆的な楽しいオペレッタの作曲家としての生涯の最晩年に、オッフェンバックはついに本格オペラ《ホフマン物語》の作曲に意欲を燃やします。ですが残念なことに、志し半ばで病に倒れ、作品は未完に終わり、後に別な作曲家の手によって完成されました。そして今日この《ホフマン物語》は、オペラの名作中の名作として世に知られております。
 ドイツロマン派を代表する作家であり、作曲や指揮もこなし、画家で裁判官でもあったE.T.A.ホフマン。彼の小説になぞらえながら、作家本人の恋の遍歴を物語っていくこのオペラですが、何やら奇妙ないわくに満ちたエピソードがまつわっておりまして……」

 司会の宮永鈴音はここで、少し声を落としてそうっと続きを語る。

「まずは作曲途中におけるオッフェンバック本人の死に始まり、後年ウィーンの劇場でこの作品を上演中に火災が起こり、多数の死傷者を出す大惨が。数年後は、パリでも劇場が炎上し、貴重な手稿が焼失してしまいます。残された楽譜の補筆、修正が研究者らによってなされ、様々な版が生まれるのですが、近年になって大量の自筆譜が発見され、さらなる混乱を招くことに。
 こうした経緯から、現在でも決定版はありません。まるで現実離れした幻想怪奇な物語を象徴するかのような運命を、作品自体がたどっているようですね」

 幻想の効果を狙って、かなり落としていた舞台照明が明るく点されたところで、鈴音は声のトーンも明るく切り替え、話のまとめに入る。

「さて、今回の課題は、オペラの第二幕でゼンマイ仕掛けの人形が歌う、通称〈オランピアのアリア〉です。日本語のタイトルとしては、『生け垣で小鳥たちは』とか、『森の小鳥は憧れを歌う』、『クマシデ並木の小鳥たち』など、様々に訳されているようですね。
 オランピアはゼンマイ仕掛けなので、力尽きて止まってしまった時にはネジを巻かないといけません。舞台での工夫も見せ所。
 それでは、素晴らしきコロラトゥーラ・ソプラノと華麗なるバレエの舞を、どうぞご堪能くださいませ」
 そこまで語って、入場のAチームと入れ替わるように舞台袖に下がりながら、説明を付け足す。
「ああそう、コロラトゥーラというのは、軽やかにコロコロ転がる高い声を駆使して、歌を華やかに彩る装飾的な歌唱法を意味します。それは大変な超絶技巧なんですよ!」


 とにかく何があろうとも、ソリストに合わせたリハーサルどおりのテンポと呼吸を貫くこと。
 当たり前のこととはいえ、有出絃人は指揮の初心を自分に言い聞かせた。出だしと中間部で、要となるフルートのソロがあるくらいで、オケ全体は添え物的な、本当に単純な伴奏だし、難しいことは何もないのだ。ただ、あのお人形さん、驚異的な実力はあっても経験は浅そうだから、万が一本番で違うことをやらかしても完璧に合わせるよう、充分気をつけてやる必要はあるだろう。

 チューニングが終わった頃合いで、指揮者はオランピアに恋するホフマンを装いつつ、自動人形に徹する彼女を舞台中央手前付近に上品にエスコートする。あのコッペリウス老の魔法の眼鏡、小道具として拝借しとけば良かったなと、絃人は今になっていたずら心がちらりとよぎる。しかし、本当に魔法が効いてしまったらタイヘンなのだ。
 上手側に佇む白衣をまとったスパランツァーニ教授ことネジ巻き係の存在を確認し、有出絃人は指揮台に立つ。常に指揮者の視界に入るよう、オランピアにはなるべく下手エリアで歌い踊るよう要請してあるので、身体を左向き加減にタクトを振る。

 といってもオランピアは超絶技巧の華麗な歌ばかりか、精巧な機械仕掛けの人形らしく、舞台の左側スペースをめいっぱい利用してくるくる回転したりと、アクロバット的な離れ業も信じがたいことに軽々とやってのけるから、一瞬たりとも指揮者は目が離せない。
 歌いながら徐々に勢いを失い、ぎこちなく固まってしまった娘の元に、スパランツァーニが慌てて駆けつけ、大げさにゼンマイを巻く面白おかしいシーンも実にうまくいき、客席の審査員らも大喜び。

 まずは歌の前半が滞りなく終わり、オーケストラの短い全合奏に乗って、オランピアがダンスの見せ場とばかりに素速い回転技を始めたところで、事は起こった。舞台の中ほどから客席側に向かったまま勢い余って──

 本番中の音楽家の習性に従い、「危ないっ!」と、声こそは出さなかったが、有出絃人は指揮棒を投げ捨て指揮台から飛び降り、自分が防波堤になるべくオランピアの行く手に身を投げ出した。
 わずかに遅れ、コンサートマスターの男性も椅子を蹴飛ばしながら飛び出した。ヴァイオリンを持つ左手に弓も持ち変え、空いた右腕を伸ばして、折り重なったまま重力と慣性の法則に従って舞台から落ちんばかりの危ういバランスのオランピア嬢の腕をとっさにつかむ。
 おかげでどうにか落下は免れた。
 上手の離れた場所にいったん戻っていたオランピアの父親ことゼンマイ係も、客席で思わず立ち上がってしまった審査員のジョージも、何しろ一瞬のことでなすすべがなかった。

 舞台のドラマティックな瞬間を切り取った静止画のような光景。

 宮永鈴音を初めとする舞台袖のスタッフに、そこいらに散らばる撮影隊や舞台上のオケメンバーの全員が、ほうっと安堵する。楽曲がきりのいい頃合いだったこともあり、舞台もこの場でいったん中断かと思いきや、長いフェルマータを経て聞こえしは、中間部をつなぐフルートの優美なメロディー。
 この絶妙なタイミングは、ちょっとばかり感動を誘うものだった。フルートに添える唯一の伴奏ハープもすぐさま反応して優しい三連符を添える。
 オランピア嬢は今の騒動が演出であったかのように振る舞い、パンパンと軽く衣装や髪を整える仕草をしてから、指揮の合図を受けるまでもなく、すまして続きを歌い出した。まるで何事もなかったかのよう。呼吸が乱れている様子もいっさい見せず。
 指揮者とコンマスだけが後れをとる形になってしまったが、音楽が続いているならば仕方あるまいと二人は自らの位置に戻り——— 指揮者は指揮棒は持たぬままで ———、後半の流れに身を任せていく。

 まったくもって、とんだハプニング。

 しかしこれまた同様の事態、いや、それ以上の惨事が続くBの舞台でも起ころうとは……。




25.「トゥッティの、名もなきギセイ者くん」に続く...




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