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「I」で語られる伝承料理と「We」で語られる伝承料理(I)

敬意を込めて「伝承料理」と呼ぶ

その土地の気候や風土のなかで穫ることや育てることができた食材をもとに、土地の暮らし、しきたりや文化、季節の行事にちなんだ習わしのなかで歴史と共に培われてきた食。恵まれた土地もあれば厳しさに囲まれた土地もある。だから、たくさんあったからできたものもあればたくさん無いから生まれたものもあるだろう。時に地域独自の料理法が重んじられ、時に家ごとの味つけが重んじられ、継がれてきた料理の姿。

郷土料理、伝統料理、伝承料理。いろんな書き方があるけれど、料理を通して土地の魅力を伝えたい、この食を未来に継承したいと思ってつくられる方のもとでいただく料理を「伝承料理」と記したい。最大の敬意を込めて。

私は料理は食べるばかり。
仕事がらたくさんの土地を訪ねてその土地ごとの料理をいただく機会に恵まれているけれど、調理の技術を蓄えることに重きを置くことはほとんどない。私にとって郷土料理との出逢いは地形的背景や地域の文化的背景を知る機会であって、伝承料理はそれを繰り出す人からその土地の世界観やその土地で生きる人生観を見せてもらえる機会である。

何より私の頭のなかは、いかに自分が美味しいものを食べて帰るかや珍しい体験をするかよりも、自分の役割(仕事)としてその文化をどのように旅行者への体験として届けることできるだろうかと考え始めていることが多い。
(それでも、こういった体験にはそのありのままの文化度の高さとそこに宿っている想いを理解して、むやみに変えない、むやみに消費しない形を慎重に時間をかけて考えることが大事だと思っている)

つくることへの哲学を感じた「I」で語られる伝承料理

秋の終わり、奥羽の山並みが広がる岩手県の北部のまちで自給自足で暮らす女性宅を訪ねる機会をいただいた。近くのまちで生まれ育ってこの山間のまちに嫁ぎ、大きな日本家屋で暮らすしている彼女の食と暮らしに学びたいと通う人たちに誘われて。

到着すると、台所で下ごしらえがされていたお料理が、次々と仕上げられ始めた。飾らない、生活感のある、陽の差し込む土間の明るい台所。収穫したばかりのそばを挽いて打たれたそば、天ぷら、煮物、お漬物……と旬のお料理と保存食が大きなテーブルからこぼれ落ちそうなほど並ぶ様子にただ見惚れてしまいそうになりながらその仕事を手伝って、一つひとつの食材がどう育った、今年は育ちがどうだったという会話に耳を傾ける。そのすべてが材料から自ら育てられたものか近隣から採れたもの。

美しい庭。野菜が植っている表の畑、栗の木や花が広がる裏の庭、続いていく山から食材が集まる

そこには“いろいろやり方はあるけど、今回はこうしてみた。どうだろうか”という十分すぎる知識量と経験値とそれでもなお重ねられていく実験の両方のニュアンスが盛られていた。だから、料理のすべてが「I(私)」で語られる。定番の郷土料理メニューであっても、探求のなかで個人が受け継いできた、個人が見つけたやり方がそこにある。「前はこうしていたけど、こういうのもいいなと私は思うのよ」というものだ。

翌日は山へお供させていただいて、きのこ狩り
きのこのありそうな場所も、食用きのこと毒きのこの見分けもならない私は、
そもそも道なき山の斜面の登り方も知らない。お荷物そのもの。

通った2日間で、本当にありとあらゆるものをいただいた。朝には腹ごしらえはどうかと気遣っていただき、ついて行くのがやっとな山仕事ひとつすれば小腹が空くのと一緒に「これで休憩しましょう」ともう一食。そして作業をしたりおしゃべりをしたりするうちに食事の時間が来て、あれこれ教えていただく間にも「ちょっとこれ食べてごらん」と庭の恵みをいただいたり。食べることが、日々の仕事も学びも、会話も喜びも、時間の流れすらも作っている。そして途中、飛び込みの訪問者が戸を開けると、すべての人を「まあ、食べて行って」と座らせて、その胃袋をかたっぱしから満たしていく。庭と畑と保存庫を持つ家、そして自らの手であらゆるものをつくり出せる人の、豊かさ尽きない底力。

そのすべてにたくさんの時間や手間がかかっている。それを惜しみなくみんなで囲ませてくれる。ひと口食べて、あぁこの味だとか、こっちと比べてみようとか、やっぱりこれが美味しいと、みんながわいわいしているのを聞きながら、彼女が言った「こうやってみんなで遊ぶのが好きだからね」と。

「みんなで遊ぶのが好きだから」

このひと言に勝手に私がいただいたものは、とても大きい。現代に暮らしていると心づかいと遠慮の関係とか、おもてなしとやりすぎの線引きとか、give&takeに求められるイーブンさとか、その末の損得勘定とか、そんな得体の知れないぐらつきを感じることが、私はわりとある。この言葉は「I」で語るからこその哲学だと思う。きっと、この言葉を私はこれから何度も思い出すんだと思う。

人それぞれ探しているものがなんであれ、そういう感覚にひとつでも出会えたら、旅って十分すぎる一生ものだと思う。

たらくさ文化旅行舎がつくる旅の紹介はたらくさ文化旅行舎のnoteから

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