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技法や方式自体を目的化・価値化しても創作的な質が保証されるとは限りませんよね

伝統に関わる何かしらの物や事、そして地域の特産品などの品質を一定以上に保ち続けるため、何かしらの決まりをつくり、それに正しく従ったものだけを正規のものとして認定する、というのは良く行われる事です。

その仕組み自体は良いものなのですが・・・

しかし、その決まりのなかの何かしらの技法や方式・・・その決められた範囲で数種の選択肢が許されているのに、一部だけを取り上げ「これだけがホンモノ」とし「それを行っているウチだけがホンモノで他はニセモノ」と、一方的に自分を上げ、他を下げる人を観ると「良いものを安定して生み出すための仕組み」が、創作的には逆に作用してしまっていると感じます。

そのコダワリが良い方向に機能している場合「ある範囲においてはとても優れたものを産する」場合もありますが、しかし、そう主張する人の産するモノの品質が必ずしも優れているわけではない、というのは良くある事です。

もちろん「当方は、この技法・方式のなかでも、これを最良と考え制作しております」という自らの制作姿勢の表明だけで収めているのなら良いのですが・・・

それぞれの技法や方式には、それぞれの良さや特徴があり、もちろん欠点もあります。そこに「良い物を作りたい」という前向きさと正直さがある限り、基本的にはその全ては正しいと私は考えています。

人造物である限り、本質的には「ホンモノもニセモノもない」そこに嘘があるか、無いかだけが問題です。

(下のリンク記事は、人為・人造物についての話題です。今回の話題と似ていますが違う角度からのお話です)

通常、人造物は「意図」から産まれます。

時に偶然に生じたものを元に新しいものが産まれたりもしますが、

それは

 偶然の産物を価値有るものとして認識  = 「発見」
→ その「発見」したものと元々あった「意図」とを結びつけ形にした
→ その結果、新しいものが産まれた
→ その新しいものが社会に認知された

というわけですから、それも「意図」が元になっています。

なぜ「社会に認知された」まで入っているかというと、人間は社会的動物ですから、新しいものを産み出した当事者、あるいはその周りの人だけがそれを知っていても、社会の誰もそれを必要としない、興味を持たない、という事になると、それは存在していない事になってしまうからです。

「発見」自体、元から持っているいろいろな意図のどれかに使えるものは無いかと常にアンテナを張っているから出来る事ですし・・・何も意図を持たず、ただ生活している人に発見はありません。

意図にもいろいろな範囲や深度があり、社会との関わりの強い人造物なら、個人の制作意図や作為よりも広い範囲の意図になります。

例えば、他人・あるいは何かしらの団体からの要望や用途や予算などなど・・・それらは社会生活のなかから必然として出てくるものです。それゆえに「意図」自体にはホンモノもニセモノもありません。もちろん、個人の範囲のものであってもそうです。

「技法や方式」は、そのような「意図」を実現するための「手段」ですから、そこに嘘が無ければホンモノもニセモノも無いのです。

・・・しかしもちろん「技法・方式に価値は無い」という事ではなくとても重要です。

*技術や方式が無ければ意図を実現出来ない
*創作意図だけでなく、その技法・方式の発生と進化自体が創作である

という事実があります。

そして

*創作意図と技法・方式の両者が同じ強さで組み合うと両者が最大に機能し、一体化し不可分になる

という特徴があります。

良いものが出来る時ほど、両者は切り離せないのです。

なので、創作意図と同じぐらい技法・方式は大切です。

一度、そのような優れたものが産まれると、

「その技法や方式が長年引き継がれ、それにより生産されたモノの品質が優れ、その地域や集団の特徴を示す有益なものになり、結果としてその技法や方式自体に価値が生じた」

という事は起こりますから、その技術や方式自体を保存しようとなる事は自然で、そうするべきです。

ただし、繰り返しになりますが「本質的には技法や方式は目的達成のための手段である」という事を理解しておかないと本来の道から逸れてしまったり、見失なってしまう事になります。

創作意図だけでは何も出来上がりませんし、技法や方式だけでは、形には出来たとしても中身の無い異物しか出来ません・・・しかし、特に伝統工芸の世界では「技術さえあれば昔の素晴らしいものと同様のモノが出来る」と思っている人が多いように思われます。

話が少しズレました・・・元に戻して・・・

私のメインの生業である染め物で説明しますと・・・

ある意味「ニセモノの染め物」は存在しません。

例えば・・・水で洗うと色が落ちてしまう染め物は、通常では欠陥品です。しかし精緻な文様染の着物をモデルに着用させ、そのモデルに水をかけたら着物が真っ白な白生地に戻った・・・そういうパフォーマンスをしたいという事であれば、むしろ水でキレイに落ちてしまう染め物が必要になります。

上記は少し極端な例ですが、技法や方式を過剰に固定し、それだけを正当としてしまうと、そのような「創作的なひらめき」が舞い降りても、それを実現するための技法を発想出来ないのです。

また、発想出来ないからそういう「ひらめき」が舞い降りても見逃してしまいます。過剰な技法・方式の固定化は「創作の振り幅を狭めてしまう」のです。

ただし、創作的自由は、嘘があっては保持出来ません。そこに技術的・創作的な嘘が無い事が前提にあるからこそ、その表現に信頼が生まれ、その場で自由に振る舞う事を許されます。

例えば、糸目友禅で文様を描く際に「昔ながらの真糊(もち米から作られた糊)で糸目糊を引いた友禅です」と説明しているのに、実際に使われている糊が「ゴム糊」であったり、「手描き」と言いながら実際には「糸目糊はシルクスクリーンのゴム糊で、彩色だけ手でやったもの」だったり・・・そういうのはいけません。

(糸目友禅=文様の輪郭や線の部分に細い糊を引き、防染する事によって文様を描く技法。昔ながらの、もち米から作られた「真糊」か、ゴムから作られた「ゴム糊」が使われる事が多い。多くの人が「いわゆる友禅染」と認識している文様染)

特に、食品や工芸などの「素材と、技法・方式と、作者の表現が強く結びついているもの」では嘘が露呈すると信用を失います。

しかし、真糊の糸目であっても、ゴム糊の糸目であっても、シルクスクリーンの糸目であっても、文様全体がプリントであっても、それぞれ「必要だから生まれた技法・方式」ですから、それ自体には何の嘘もありませんし、それらの本質的な価値に上下もありません。それぞれの特徴と良さがあり、その特徴を生かした文様染で、それぞれの技法に見合う価格であれば、何も問題が無いのは当然です。

言うまでもなくその技法と、それによって出来上がった作品の技術・創作的な価値とは何の関連もありません。それぞれの技法のなかに高度な技術・低レベルな技術、良い作品・低レベルな作品があるだけです。

逆に「昔ながらの真糊糸目でつくられた友禅文様だから、無条件にその技術と創作的価値は高い」という事なら、苦労はありません。(そのように主張する人は多いですが)それなら、みな真糊糸目で友禅染をするでしょう。「その作業をするだけでモノの質が上がる事は現実には無い」から、みな創意工夫し、苦心して制作しているのですから。

しかし「我らのみが本流である」と名乗りたがる人は多く、そのような「偏ったホンモノ・ニセモノ論」は技法・方式だけでなく、制作の進行方法にも向けられます。

例えば、ゴム糸目を使う友禅染をするとして、いろいろな職人さんに外注し、それを総合して制作する場合は、それぞれの作業段階ごとに「けじめ」をつけなければなりませんから、例えば布に下絵を写す作業を担当する人は、図案の細かい部分まで布に下絵を写します。

(真糊を使う場合は、生地を友禅伸子に張って糸目を引くため、細かい部分も布に下絵を写す事が多い。ゴム糊糸目の場合は、真糊と同じようにする場合と、布を机に置いて糸目糊を引く場合がある)

(真糊糸目と、ゴム糊糸目では工程に多少の違いがあり、この話題は「ゴム糊糸目」においての話)

しかし、同じ工房内で、いろいろな作業を行う制作方法では、ひとつひとつの作業の全てにけじめを付ける必要がありません。もちろん、けじめを付ける必要のあるものは、しっかりその区切りをつけますが、作業的なけじめを付けると、むしろ最終的な仕上がりに勢いがなくなってしまう場合は、何かの工程をあえて飛ばしたり、区切り無く連続させる方が良い場合も出て来ます。

例えば

紙に線描きした図案をつくる→布への下絵写し→ゴム糊糸目置き

(布への下絵写し=紙に線描きされた図案の上に布を乗せ、下からライトを当てて布に図案の線を映し「青花」という水や蒸気で消える特殊な染料で描き写す事)

という工程を、ひとつの工房内で連続して出来る場合は、下絵を布に写す際に細かいところまで青花で描く必要がなく、図案をライトで下から映して直接、布にゴム糊糸目を引いた方が仕上がりが良い場合も出てくるのです。

どの制作者も、それぞれの環境でベストな方法は何か?を考え仕事をするわけですから、下絵を布に写す方法ひとつとっても、正解はひとつではありません。

しかし「細かい文様であっても、下絵を全て描き写さないのは手抜き」と主張してしまう人は、一定数おります。

そもそも「昔ながらの真糊だけがホンモノの糸目友禅」と主張する人にとっては上の話題以前に「ゴム糊なんてニセモノ、話にならない」という事になっておりますが・・・。

しかし、その理由が事実誤認も甚だしい「ゴム糊の線は固く良い線にならない」とか「ゴム糊除去のための揮発油洗いをすると、生地の風合いが悪くなる」などという迷信だったりするのです。

(揮発油洗い=特殊なドライクリーニング)(真糊は水溶性なので、糊を水で落とせる。基本的に揮発油を通る事は無い)

確かに、真糊糸目の線は比較的柔らかい感じに仕上がり、ゴム糊糸目の線はカッチリ仕上がる傾向はあります。しかし必ずそのように仕上がるわけではありません。

どんな道具・材料でも、使い方や加減によって大きく変わるのはどの業種でも同じです。

糸目友禅では、真糊では出来ない事がゴム糊では可能だったり、ゴム糊で真糊的な線を出す事も可能です。

揮発油洗いについても、昔は技術が悪い業者もあり、生地の風合いを損う事もありましたが、現代では、信頼出来る業者さんに外注すれば、そういう事は滅多に起こりません。むしろ、最近の糸質の悪い白生地の場合、揮発油洗いをした方が生地の風合いが良くなるぐらいです。

そのような「今の現実・事実」を知らず・・・そういう事実があってもそれを認めず「昔言われていた事を更新せず今も繰り返しているだけ」の人が多いのです。特に伝統に関わる業界ではそういう事が多く起こります。

今現在の現実を観ないという事こそ、一番ひどい手抜きだと言えます。それは根源的な問題だからです。

「思考停止」を「伝統を守る事」と言い換えて、自分が特別な位置にいるかのような態度をし、それをビジネスにし、かつ自らの承認欲求を満たしている人が多いのです。

そして、その「真糊原理主義者」たちは、真糊を使う事だけを観れば昔ながらの技法ですが、その他の部分は博物館にある「本当のホンモノ」と、かなり染め方が違う、近代から始まった方法で行っているのです。実際、そういう人で、博物館にあるような着物・その他染色品の、昔の染め方を知っている人は殆どいません。それなのに「自分たちの技法・方式の真糊糸目の友禅のみがホンモノ」などと主張するのです。

「そもそも、そのホンモノの根拠って何?」というところがあまりに曖昧なのです。・・・というか、いい加減過ぎるのです。恐らく、だからこそ原理主義になれるのでしょう。

しかし「何か知らないけども、それが伝統技法らしいという雰囲気」だけで、世の中にあいまいに通用してしまうところが「伝統〇〇」の怖いところです。当然そのようなものは世の中に広がったり深い部分に定着する事は無いので、衰退しているわけですが・・・

昔の工芸品の素晴らしいものであっても、それが出来上がった当時は特別な事をやっていたわけではなく、その当時の制作に都合の良い材料を使い、効果のある技法を使って作り上げたわけです。むしろ、その当時可能な範囲のなかで、今よりも自由な発想で、その時に可能なあらゆる事をしています。博物館の展示物たちは数百年単位の試行錯誤が圧縮されているので見えにくいですが・・・

昔の良いものは「技法や方式によって良いものが出来た」のではなく「創作意図と技法・方式の一致」によって産まれたのです。技法や方式を含めた創作的熱量が大きかったから、物凄いものが産まれたのです。

・・・「技法や方式がその品質を約束するわけではない」のは、あらゆる分野において同じです。

例えば、イタリアのDOCG認定のワイン(原産地呼称管理法に則ったワイン)にも、美味しいのと、全然たいした事の無いものと、いろいろある事からも分かります。→ イタリアワインのDOCG認定について

そもそも、本当に歴史を学習して、伝統を体感し、かつ作品自体が現代的でオリジナリティのあるものであれば「過剰に技法や方式自体を目的化・価値化する必要がない」のです。

伝統的な技術を使うのでも「自分の作りたいものを追求していたら、最終的に伝統的な技法・方法に行き着いた」という事は良く起こります。もちろん、ただ伝統技法・方式を「踏襲」するのではなく、現代だからこその進んだ技術や方式も組み合わせる事は良く行われますし「あえて古代の技法・方式」を採用する場合もあります。そのような人たちは伝統技法・方式に対しても柔軟なのです。

そういう人たちは同じ伝統技法・方式を使うのでも「これだけがホンモノと主張する人たち」とは、制作にあたっての順番が違います。

「こういうものが作りたい!」→「ではどうやれば出来るか?」

という流れで自らの創作意図に向かい、伝統技法・方式を使う事が最良となれば、それを選択するわけです。

そのような制作の流れでは、技法・方式は、創作意図と強く結びつき、技法・方式自体も創作的なものになります。(それが伝統であっても新しいものであっても関係が無い)

何かを産み出す際には「技法・方式もまた創作の一部である」という事を強く認識する必要があります。特に伝統工芸などの、伝統に関わるタイプのものでは。

しかし「技法・方式原理主義の人たち」は

「こう作らなければならない」→「今までの事を繰り返す=作業をする」

という流れになってしまいます。

そうなると「規則に対して間違いを犯してはいないけども、面白くもないもの」が出来上がって来ます。

しかし、その「良くも悪くも安定している」ところは評価すべきところですし「昔の方式の保存」が目的であるなら、それで良いのです。同じものを安定した品質で生み出し続けるのも、毎度「加減」は必要なわけですし、簡単な事では無い事ですし。

・・・ただし、自分たちだけが正しく、他がニセモノとしなければ・・・です。

「昔ながらの方式を続ける事が価値」といっても、そこに創作的精神が希薄だと、写真をコピー機でコピーをし、そのコピーをまたコピーして・・・と続けるとその画質は酷く荒れるように、そのモノの質自体はどんどん下がって正体不明なものになってしまいます。

外側だけ変に手練たものなのに、まるで中身が無いか、中身があっても奇妙な沈殿物のようなものが入っている・・・そんなものになってしまうのです。

それではいけないと「必然の無い取ってつけたような個性・創作意図」を乗せて創作性をアピールしたものを制作しても「意図が不鮮明」なので、創作性と技法・方式がリンクしない・・・やはり結果として、奇妙なものが出来上がって来るわけです。団体展の出品物にそういうものが多いですね。もしくは「お土産屋さんに売っているようなもの」が出来上がります。

それと、上でも少し触れましたが・・・「現代、伝統〇〇と認証を受けるための決まり」が、むしろ歴史的に重要なものが生まれた時代の方法とは違っている事が少なくありません。

もちろん、現在の方式が、全て劣っているという事があるわけもなく、進化している部分も沢山ありますので、その「新しく伝統とされたもの」が悪いわけではありません。何でも古いものが素晴らしいという事はありません。

そもそも、一度失伝してしまった技法・方式は、二度と正確には復元出来ませんから、どうにもなりません。だから昔と現代の技法・方法が違うのは仕方がないのです。だからこそ「これだけがホンモノ」という事は簡単には言えないわけです。

技法・方式そのものは時代によって変化するのが自然であり、絶対にこれが正しいという事は無いし、品質安定のための決まりを作ったとしても、それは常に見直しが必要になるのは必定なわけですが、人間社会ではなかなかそう摂理通りには進みません。

伝統系のものの品質を守るための決まりを超えた部分で「これだけがホンモノで、他はニセモノ、あるいは手抜き」と一方的に他者を下げ、自分を上げるのは、ビジネス上の利点から、また、個人の承認欲求からそうするのでしょうけども、そのような人たちは、普段と違う新しい事をしようとすると、自身の普段の主張によって動きが制限され「自縄自縛状態」になります。あるいは「自己矛盾を抱える」事になります。しかし、そういう人たちは、それに気づく事も無いですし、それに気づくほどの創作的な熱量も無いようですが・・・

社会の多くの人は、実際のモノの質は観ずに、認定だけ確認してそれを高品質なものとします。だから制作・販売側はビジネス上「認定」を重要とするのですが、しかし、制作側がその方向に重心が行き過ぎると、創作的には振り幅が狭まり硬直します。そしてその硬直をどうにかしようとして、今までの慣習を変えないまま必然の無い事をし、社会からは「ああ、うん、伝統ってそうなんだ(なんだかダサいし高いし、良く分からないものだね)」と生暖かい眼で見られる・・・

特に伝統が関わるものは、発信する側も、受け取る側も「自分がこれを理解出来ないのは、知識や技術や感性が足りないせいだ」としてしまう人が多いものです。真面目な人ほど、そう考えてしまうのです。

しかし、そういう生真面目さは視野狭窄を起こし危険です。

品質を維持するための決まりや、伝統系の決まりごと自体は良いものなのですが、それがどのように運用されているかをチェックし、更新する必要があります。

そうしないと「悪意ある伝統ビジネス」に巻き込まれてしまいます。

現実的に伝統や歴史を正確に伝えられる人はいないのではないでしょうか?

たかだか、30年前の事でも正確にその時期がどうだったかは分からないものです。現代ではいろいろな物証が残っていますが、しかしそれでも「本当のところ」は分かりません。「ああ、あの当時はそうだった」という記憶は起動しても、いざ自分が再現してみよう、というレベルで観ると、結局本当のところまでは分からないのです。

どんなに素材を保存し、技法を精緻に記録し、技法を動画で残しても「実際に作る際に必要な情報」には足りないのです。「出来上がったばかりの現物」「制作時の細かい加減」が分からないと本当には分からないのです。だから、自分の眼と精神で、伝統を直視するしか無いのだと思います。

そこに「伝統に導かれた現代人の創作」が産まれる余地があるのだと思います。


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