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他人の苦しみや辛さを正確に理解する事は難しい

今回は、有川浩著『レインツリーの国』を読んで、大変共感した文章があったので、ここで紹介したいと思う。

聴覚障害者にしか聴覚障害の悩みや辛さは分からない。だから分かり合うことなど出来ないと思っていた。
だが、他人に理解できない辛さを抱えていることは健聴者も変わらないのだ。その辛さの種類がそれぞれ違うだけで。
聞こえるのだから自分たちより悩みは軽いに決まっているなんて、それこそハンデのある者の驕(おご)りでしかなかったのだ。

痛みにも悩みにも貴賤はない。周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。救急車で病院に担ぎ込まれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。


この本では、聴覚障害者が障害の例として挙げられている。聴覚障害者は見た目障害を持っているかどうか判断されにくい。だから、健聴者と同様に話しかけられ困ることがあるのだそうだ。

娘の場合も同じだ。ASD(自閉症スペクトラム障害)や強迫性障害、境界知能(IQ70〜84)も見た目では分かりにくい。
公表しなければ周りは「何だか人と違うな」というくらいにしか思われない。
初対面では気さくに話し掛けられるのだが、次会った時から避けられてしまう事が多い……それが怖くてなかなか上手くコミュニケーションとれなくなっていくという悪循環だ。
こんな経験を積むに連れ、娘や同じ様な障害に苦しんでいる人達は、周りから「普通に見えたい!」という欲望がどんどんと強くなって行くのかもしれない。
「普通なんか気にしなくてもいいじゃん!」と私は良く娘に言うのだが、私達には本人の苦しみや辛さは完全には理解できていないのだろうなと思う。

それと同じように、障害を持っている人達には、私達の苦しみや辛さを理解するのは難しいのではないかと思う。
障害がないのだから悩みもマシでしょう!という考えは違うと私は思う。
誰にでも多かれ少なかれ悩みはある。程度の違いはあるだろうが、その人本人にとっては重大な問題であり、または辛い過去を抱えていたりする。そして、障害を持っていない人達は、それを表に出さず生きている人達が多い。

つまり、障害の有無関係なしに、人それぞれが悩みを抱えながら生きていて、本人のその苦しみや辛さまでもは他人には完璧には理解し難い事なのだ。

それを分かった上で他人と接し、お互いが理解できない部分を少しずつでも埋め合わせていく作業が、信頼関係に繋がっていくのではないかな、と私は思う。それが障害有無を超え、障害が『個性』という理解に、社会みんながなっていけばいいな、と願う。


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