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「言霊 ━短編小説━」

「田中さん、肺癌だってよ。しかもステージ5」

近くで同僚が呟いている。

瑠璃には微かに聞き取れた。そして、パソコンを打つ瑠璃の手が止まった。

田中さんは、瑠璃の直属の上司だった。新卒で入って来た瑠璃の教育係が田中さんだった。

窓の外に目をやると、まだ寒い日は続きそうだ。

働き盛りの田中さんが癌だと、瑠璃にとっては、まさに驚天動地の事だった。

信じられない出来事はいつだって、突然訪れる。

田中さんは早々に両親を失くし、施設で育てられ苦学の末に大学に入り、今の仕事に就いた。

瑠璃は急いで、田中さんの入院先を同僚に聞いた。

そこは、市内のホスピスだった。

田中さんは独身だ。

瑠璃はその日の帰り道、近くの花屋でクロッカスを買った。

コロナ対策で面会は制限されていた。

近くに身寄りの居ない、田中さんの胸中を察すると、瑠璃の頬には涙が伝った。

せめて、お花だけでもとメッセージカードに

「瑠璃です。私の番号を教えますから、いつでも連絡下さい」と記した。

次の日の夜に田中さんから電話が来た。

─桜が見たい─

田中さんの、嗄れた声に瑠璃は涙を止める事が出来なかった。

桜が咲くまで、田中さんの命は持つのだろうか。

瑠璃はその日から毎晩、時間が許すまで田中さんと電話した。

こんな時まで瑠璃の仕事を心配してくれている田中さんは、本当に優しい人だった。

そして、四月になった。

病状は悪いにせよ、田中さんには数時間程、外出制限が解かれ、瑠璃は近くの公園に連れていった。

桜はまだ、蕾のままだった。

瑠璃は田中さんの車椅子を押しながら、春先に注がれる木漏れ日を二人で浴びた。

一週間後、病院から瑠璃の携帯に一本の電話が入った。

─田中さんの具合が急変した─

瑠璃はすぐさま会社を早退し、病院へと向かった。

田中さんに、逼迫した死期がやって来ていると、院長先生が特別に入室を許可してくれた。

そこには、瑠璃の想像とは別次元の田中さんが居た。

痩せ細り、点滴の管が体中に入り込んでいた、今にも朽ち果てそうな田中さんが居た。

そして、看護師から一通の手紙を渡された。

田中さんが最後の余力を振り絞り、瑠璃に書かれた手紙だった。

「瑠璃ちゃん、ごめん。桜は一緒に見れなそうだけど、君の天真爛漫な笑顔が大好きだったよ。

読み方は分からないけど、この言葉を君に…」

瑠璃はその場で、泣き崩れ、やがて田中さんは息を引き取った。

その二日後、町中に桜の花が咲いた。

田中さんの手紙には、フランス語で書かれた一文があった。

瑠璃は、その言葉を桜に向かって読上げた。

 Nem‘oubliez pas 
(私を忘れないで)

 うん、忘れない。

瑠璃は、もう一度桜を見上げながら、その花言葉を口にした。

ヌ・ムビリエ・パ」

 

 

 

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