赤備え

赤備え~歴史に消えた、最強伝説。

これは268回目。「あかぞなえ」と言います。今は遥か昔の戦国時代。その名は、味方から限りなき羨望を、敵からはこの上なき畏怖の眼差しを浴びた兵士たちです。選ばれた者だけがすべての具足(軍装)を朱色に染めることを許されたからです。戦場において、その赤い軍団は、ひときわ威勢を放ち、向かうところ敵無しという数々の伝説を遺しました。今回は、その「赤備え」の話です。

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「赤備え」とは、最強部隊、精鋭部隊という意味である。

戦国期、具足(兜、鎧、槍刀、手甲脚絆などの軍装)に赤(朱色)を用いることは、それまでにもあった。が、それはあくまで単独であったり、ごく一部、散発的に存在しただけだ。恒常的に組織的に「赤備え」で統一された軍団というものは、存在しなかった。

後北条氏では、軍団編成が五色であったとも伝えられているが、具足すべてを単一色で塗り固めたということではなさそうだ。

この軍団まるごと、頭のてっぺんから足のつま先まで、朱色で統一する、文字通りの「赤備え」を創始したのは、甲斐の武田信玄である。具体的には、彼の前半生時代に、勇将の名を欲しいままにした重臣・飯富虎昌(おぶとらまさ)である。飯富の飯という字だが、「沃」という字の「さんずい」の代わりに、「食」篇にした字だ。

当時珍しい、騎兵だけで構成された軍団で、言わば切り込み隊としての任を担ったのだが、ほぼ、次男以下がその構成員であった。

つまり、家督相続の権利がなく、守るものも無く、智恵か武功という実力によるしか栄達の道が無い者を対象としていたわけだ。要するに、貪欲な上昇志向を潜在させる階層を主体にしている。

後、一般的な軍団編成になっていったが、それはつまり、最小ユニットは、騎馬武者一人、これに2-3人の徒立ち(かちだち)の足軽が従い、馬引きその他が1-2人。少なくとも、1ユニットで3-4人、最大では5-6人の行動単位である。

従い、一般に当時の戦(いくさ)の記録で、「500騎」と記してある場合、それは(例外はあるが)たいていの場合、500人を意味しない。少なくとも、1500人以上を意味している。

この武田の赤い軍団は、実際に精強であったかどうかは別として、敵方に対しては確かに相当の恐怖を味あわせる効果はあったようだ。

阿鼻叫喚が渦巻く戦場で、突如、真っ赤な集団が雄たけびを挙げながら、密集隊形で攻めかかってきた様子を思い浮かべれば、その威圧感たるや想像に難く無い。

信玄という人物は、非常にこういう「演出」のうまい武将であった。あの有名な「風林火山」という馬標(うまじるし)も、意味するところは「信玄、ここに有り」なのだが、勝ちと決まったときだけに掲げられた形跡が濃厚であり、これがまた「常勝軍」の「必勝の旗」という印象付けにはきわめて効果的だったのである。

「風林火山」の旗は、当初信玄がまだ若年の頃、自ら草案して決めたのだが、正直甲斐の将兵たちには、不評であったらしい。

兵法書「孫子」の軍争篇にある一説そのままのパクリなのだが、

疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山。

(疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)

なにが問題だったかというと、誰にも「読めなかった」のである。

当時、農兵中心の軍隊では、ほとんどが文盲であったといっても過言ではない。だから、漢字が読めなかったのだ。なんのことやら、さっぱり、というわけだ。信玄子飼いの重臣たちでさえ、文字が読めない者が何人もいたくらいであるから、一般は推して知るべしである。

ちなみに、この「風林火山」の軍旗は、実は信玄の専売特許ではない。さらに時代を遡って南北朝の騒乱のころ、奥羽の猛将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)、当時18歳が使っている。

南朝の後醍醐天皇の政権に対し、足利尊氏が反旗を翻し、国家を二分する内乱となった折り、南朝方の新田義貞が尊氏に敗れた。同じく南朝方の顕家は、陸奥国の多賀城(宮城県多賀城市)で東北一帯を天皇から任されていたが、五万の大軍で一気に関東に南下、足利軍を蹴散らしながら、たちまち京都まで上洛を果たした。

このとき、顕家の軍勢は、1日に平均40kmの移動を敢行しており、600kmに及ぶ長距離を、わずか半月で駆け抜けた。これは、後の羽柴秀吉の「中国大返し」を遥かに超える、日本の歴史上でも屈指の強行軍であった。このときに掲げられたのが、実は「風林火山」の軍旗である。

信玄は、推測するに、おそらくこの顕家の故事(出所は太平記)を知っていて、そこからこの「風林火山」を着想したのだろう。

話は戻るが、この馬標と同じく、「赤備え」も将兵たちの間では、当初さんざんに不評だったようだ。確かに当時、朱色は勇者の証(あかし)ではあった。大将から褒美として、「朱槍」を賜るというような具合だ。

しかし、全身朱色で塗り固めると話は別だ。その奇怪さは、当時にあっても一般常識の外だったのだろう。実に「こっぱずかしいずら」というわけだ。

しかし、信玄、生涯にわたって通算72戦、49勝、3敗、20分け(勝率6割8分。勝ち+分けの合計では、9割5分8厘。)という、驚異的な戦歴にあって、そこには常に、精鋭「赤備え」がいた。いつしか、それが「伝説」と化した。

しかし、当の信玄本人は、意外ににも勝率にこだわっていない。それどころか、否定的であった。ちなみに信玄は生前、こんなことを武将たちに説いている。

「勝敗は六分か七分勝てば出来過ぎである。
八分の勝ちはすでに危険であり、
九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。」

あるいはこうも述べている。

「戦いは五分の勝利をもって上となし、七分を中となし、十分をもって下となる。
五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。」

さてこの武田赤備えだが、飯富虎昌隊がその嚆矢(こうし)となったが、虎昌が信玄嫡男の義信をかついだクーデター未遂計画の主犯とされて成敗されたため(この事件は、謎に満ちている)、その弟(甥という説もある)であった山県昌景(やまがたまさかげ)が軍団を継承した。

山県は、言うまでもなく信玄子飼いの勇将で、とくに強兵で鳴らした三河・徳川勢ですら、抱いた恐怖心は言語を絶するものがあったようだ。「風林火山」の馬標や武田菱(たけだびし)の軍旗を見ては戦意を喪失し、「赤備え」の前進に遭っては後ずさりする有様だと言われている。

山県は300騎持ち。武田赤備えが、全国にその武名が知れ渡るようになったのは、この山県隊・赤備えによるところが大である。当時対戦した相手方の記録にも、「あまりにも強すぎる」と評されているくらいである。

武田赤備えには、ほかに、浅利信種(あさりのぶたね)隊があった。山県に比べると、小規模の120騎持ちである。浅利は、このNoteでも「絶対絶命~信玄も震えた永禄十二年の冬」で書いた、「三増峠合戦」において、乱戦の中で討ち死にしている。

しかし、実は武田赤備えはもう一隊あった。それは、外様の武将(とざま、武田譜代ではない、占領地の出身。真田も外様である。)、上州・小幡信貞(おばたのぶさだ)の赤備えである。

この小幡信貞が率いる「上州赤備え」こそは、実は武田軍にあって、最大兵力であったことは意外に知られていない。その総数500騎。信玄からは、なみなみならぬ信頼を得ていたことは間違いない。

勇猛さのみならず、智恵も機敏であったようだ。信玄没後、勝頼の時代には、最終的に武田と縁組していた木曽氏が裏切り、織田信長と内通していたことが、武田滅亡の直接的な引き金となったが、その遥か以前から、木曽氏の動静にきわめて疑念を抱いた稀有な人物である。勝頼に、木曽を甲府に在番させ、自分を木曽に配置するよう強く進言したといわれる。「木曽には小幡を、小幡を木曽に」という有名な言葉が残っている。

長篠(設楽ヶ原、したらがはら)合戦では、8000人の徳川勢(織田・徳川連合軍の右翼、馬防柵の外に布陣)に、山県隊が襲い掛かっている。上州赤備えは、中央主力の内藤昌豊隊の指揮の下、連合軍の中央の馬防柵にとりつき、ついには三段とも一時は破っている。

長篠合戦では、山県隊・赤備えが敵の右翼(連合軍最強の三河兵)に、集中攻撃をして、注意をそらしている間に、武田本隊(内藤隊・小幡隊の中央主力)が敵前中央突破を図る作戦だったようだ。内藤隊・小幡赤備えが無理やりこじ開けた、敵中央の突破口に、勝頼の親衛隊(穴山信君隊)を押し込み、連合軍を分断する予定だった。

ところが、勝利目前にして、親衛隊(穴山信友)があろうことか意味不明の撤退してしまい(実は、穴山は、織田信長と内通、裏切っていた可能性が濃厚である)、いわば「裏崩れ」で武田勢は戦線が崩壊するに至った。赤備えは、このとき最前線に突出しており、ほぼ捨て駒(すてごま)同然になってしまった。山県もここで、銃弾を一身に浴びて戦死。小幡信貞は辛うじて、戦線を離脱し、武田滅亡後は戦友・真田昌幸(幸村の父)を頼って、そこで晩年を送っている。

武田滅亡後、遺臣たちは織田信長による残党狩りを逃れて、ちりぢりになっていたが、これを裏で匿(かくま)い、自軍にひそかに取り込んでいたのが徳川家康である。

そして、徳川家中で一番の猛将といわれた若き井伊直政(いいなおまさ)に、武田旧臣を集約。旧・赤備えの将兵も多数組み込まれた。そこで、徳川軍の赤備えとして再び歴史上に復活してくる。

当時の話として、面白いことがある。徳川家中の武将たちの誰もがこの甲州武士団(武田旧臣)をほしがった。重臣・酒井忠次はこの軍団を、家康から預かっていた。彼は思案した挙句、若いが猛将の誉れ高い井伊直政の配下に組み入れるようにと家康に提案した。

ところが、榊原康政(さかきばらやすまさ、本多忠勝と並んで、徳川きっての名将の双璧である。)が、黙ってはいなかった。半分でもいいから自分にほしいと申し出た。が、忠次は、本来は自分が家康からもらった武士団であり、自分の一存で直政につけることを願い出たのだと突っぱねた。そして康政にこういい放ったという。

「汝、あくまで横車を押すつもりなら、汝の一族を皆串刺しにしてくれるわ」

井伊の赤備え(赤鬼)も、武田赤備えの名を汚すことなく、その武名を轟かせた。家康が、後に羽柴秀吉と、小牧・長久手の合戦で相対したときのことだ。

勝敗は、客観的に見れば、秀吉の圧勝、の「はず」だった。なにしろ、秀吉は10万に上る大軍を擁し、一方の徳川は織田の残党を合わせても動員数3万でしかなかった。秀吉本隊と対峙したのは、わずか1万6000である。

ここで井伊の赤備え3000は先鋒隊として長久手で、南下する秀吉方を急襲。池田恒興を討ち取るなどの武功を挙げ、秀吉諸軍の分断に成功。秀吉方の三河蹂躙計画の出鼻を挫いた。当初優勢であったはずの秀吉方は、長久手戦の後、ほぼ戦線膠着状態に陥り、けっきょく政治的和睦の選択をせざるをえなくなる。これが、赤備え・再登板の瞬間だった。

その後も井伊の赤備えは、関ヶ原でも名を挙げる。当初打ち合わせでは、先鋒は豊臣恩顧の武将・福島正則だったが、突如井伊の赤備えが突出して、戦端を一気に開いてしまったのである。「井伊の抜け駆け」、「井伊の先駆け」と言われる有名な事件だ。

もともと関ヶ原合戦というものは、豊臣の内部分裂の戦いだった。「豊臣方(石田三成)と同じく豊臣方(黒田・加藤・福島ら)の戦い」である。その一方に家康は「助太刀」したという立場なのだ。

しかし、そのまま戦が終わってしまっては、勝ったとしても、豊臣恩顧の武将たちのうち、勝ち残った側がのさばることになる。従って、最後の決戦の土壇場では、なにがなんでも徳川が戦争の主導権を握って、「豊臣政権最高幹部・徳川と逆賊・石田三成の戦い」に意味を捻じ曲げる必要があったのである。

その「抜け駆け」に井伊の赤備えがダークホースとして、一気に戦端を開く役を演じたわけだ。当初の作戦計画をくつがえして、井伊の赤備えが突出、戦端を開いてしまった件で、井伊直政は処罰されていない。つまり、あらかじめ、福島・黒田・加藤ら豊臣恩顧の武将たちを欺き、出し抜くことが家康・直政の間で内定していたのであろう。

さて、関ヶ原のころになると、武田滅亡から、すでに18年が経過している。井伊の赤備えに組み込まれた武田遺臣たちも、老齢化してきている。

この戦国末期、いわゆる甲子園の決勝戦は、意外なほど平和な時代に、いきなり発生して、100年の戦国も幕切れとなっていく。関ヶ原から、大阪冬・夏の陣までには、15年が経過している。この間、戦らしい戦は、ほとんど無かった。武田遺臣たちの多くも、退役し、あるいは鬼籍に入り、赤備えの人員は大きく入れ替わっていた。なにしろ、信玄の死から42年も経っているのだ。当時20歳の者でも、62歳。元服が15歳の時代であるから、その15歳だったとしても57歳になっている。

大阪冬の陣にも、井伊の赤備えは動員されている。家康は、その華麗な朱色の軍装を前に感嘆する諸将とは違い、がっくり肩を落として嘆息をついた。具足が、あまりにも綺麗なのだ。刀傷ひとつない。赤備えとはいえ、多くの者が実戦経験を持たない世代に、言わば世代交代していたのである。その中に、わずかな数だが、使い古された傷だらけの具足をまとった老兵たちが混じっている。

「見ろ。赤備えも、もはや形ばかりよの。あの見る影もないほど色落ちした具足の者たちだけが、真の赤備えぞ。」

そのさなか、再び赤備えが、歴史上、最後の閃光を放つ瞬間が到来した。真田幸村(信繁、のぶしげ)の登場である。

真田は、幸村の父(昌幸)、祖父(幸隆)と三代にわたって、武田家臣団であった。信玄逝去のときに、幸村は6歳。武田滅亡の際には、幸村は15歳である。

その後、父が上田に独立割拠し、小大名として苦渋をなめながら、徳川の大軍を二度にわたってカウンターで撃破するという妙技を天下に見せつけた。しかし、真田は武田全盛期を通じて、けして赤備えではなかったし、主家を失い独立した後も赤備えにはしなかった。赤備えをするには、それほどの覚悟がいる。寡兵で徳川を一度ならず、二度まで撃破し、その名を天下に轟かせた昌幸でさえ、それは敢えてしなかった。

関ヶ原以降は、父とともに紀州・九度山に幽閉され、15年に及ぶ失意の生活を送る。幸村は50代に近づいており、鬱々とした日々に沈潜していた。父はおそらく、暇にあかせて、幸村に「いつか再起する日」を語り、大阪城で豊臣方に立って徳川と一戦する際の戦略を、数々説いていたことだろう。その父も絶望のうちに憤死し、武田最後の遺臣としての意地も、次第に幻になりつつあった。

そこに徳川との最終決戦の腹を決めた豊臣秀頼・淀君から、「助力請う」との誘いがあり、幸村はこれに応えて大阪入りをした。浪人である。そして、預けられた5000の将兵も、また徳川の治世において、もはや天下に行き場のない同じ浪人たちであった。

十重二十重に大阪城を包囲する徳川勢を前に、幸村がしたことは、軍装を朱色にした赤備えの再興であった。このときは、軍旗も無地の朱色である。ある意味、浪人部隊だけに、赤備えという栄光の軍団名を担うのにふさわしい覇気に満ちた集団であったことは間違いない。失うものを何も持たない者どもである。

ここに、幸村の、武田遺臣としての最後の誇りが余すところなく示されている。本名・信繁(のぶしげ)という名も、信玄の愛弟の名を許されたものである(武田信繁は第四次川中島合戦で、兄を救うために、盾となって防戦の末、討ち死にしている。)。父・昌幸が、信繁戦死後、「わが次男に、信繁様の御名を頂戴いたしたく」と信玄に懇望して許された、その名である。

信玄の晩年、まだ子供であったとはいえ、躑躅ヶ崎の館に信玄の近習として、信玄自身に育てられていた幸村にしてみれば、かつて戦に赴いていく赤備えの勇姿を、日ごろから実見し、羨望の眼差しで見送っていたはずだ。いわゆる「武田学校」の純粋培養体である。間違いなく、山県隊の颯爽とした昔日の面影が、目を閉じるたびに生き生きと思い出されたはずなのだ。幸村の心中には、徳川の赤備えなど、似非(えせ)である、自分が最後に本当の赤備えとは何かをみせてくれよう、そうした自負があったことは想像に難くない。

そして、恐らくは生涯最後の戦になるであろう大阪の陣において、幸村は生まれて初めて赤備えに身を包む。戦国末期とはいえ、すでに毎日のように繰り返されていた戦の時代はとうに過去のものとなっていた中で、幸村は血煙と阿鼻叫喚が渦巻く戦の時代を知っている、数少ない者になっていた。

赤一色の真田隊が、茶臼山から密集隊形で駆け下り、3倍の松平忠直隊を中央突破し、一気に家康本陣を蹂躙してみせた戦ぶりは、徳川勢に参加していたあの島津ですら感動のあまり、国許への手紙に「真田、日本一の兵」と絶賛するほどのものだった。

家康も、本陣を突き崩され、自身ほうほうの体で辛くも戦線離脱をするような醜態を味合わされたのは、若き日に三方ヶ原合戦において、山県昌景の赤備えに撃破されたとき以来、生涯二度目の屈辱である。

この幸村の最後の突貫は、歴史上、赤備えにとっても最後の花道となった。以来、「赤」が歴史を動かしたことは、無い。

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