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海外のすゝめ : なぜ海外にいると自由に生きられるのか?

ベトナム・ホーチミンに拠点を移し、早4ヶ月が経ちました。

学生の頃、友達とイタリアに行ったことをきっかけに、海外でいつしか生活をしたい。もっと多くの他文化や海外の人と触れ合いたい。そう思うようになっていきました。大学卒業時にはアメリカの大学院へ進学・留学することも選択肢として考えましたが、金銭面と当時の語学力の問題で断念。失敗してもいいから、自分にも出来ることからまずは日本国内でチャレンジをと思い、日本で会社を立ち上げることにしました。

ですがその後も、海外への想いは消えることはなく、親しい友人には海外への想いを話したり、日本に住みながら外国人と一緒にシェアハウスで2年住むほどでした。その時、友人にこんな質問をされました。

「なんでそんなに海外に行きたいの?」

それに対する回答を、自分自身でも答えがわからず「そもそもなんでおれって海外に行きたいんだろう?」と行きたい理由を言語化することができませんでした。

「海外に行きたいって単なる逃げだよね」

個人的には今でもよくわからない日本人の通念としてあるような「逃げ」とか「諦め」とか、一意専心・首尾一貫していないといけない謎の同調圧力に苛立ちを覚えることもありますが、自分も明確に言語化出来ていないのでその意見をとりあえず受け入れるしかありませんでした。

しかしこっちに移り住んで、その答えが幾つかの要素として確信に近い感覚を得たので、日本に住んでいながら閉塞感の中で苦しんでいる多くの方へ少しでも「もっと視野を広げた先の世界をみることの楽しさを共有したい」と思い、なぜ海外へ出ることをオススメするのか。なぜ私自身、生き生きしていられる(今現在は…)と感じるのか。完全に主観的、かつエビデンスのない意見ですが幾つか私なりの理由をシェアしたいと思います。

ノイズがない

海外の何に居心地の良さを感じるのか

一番最初に感じる理由としては「ノイズが少ないなぁ」と思えることです。

ただ街が静かだとか、そういうことではありません。私が住むホーチミンでは経済発展が著しいので、常に街のインフラは刷新され続けています。「工事現場での作業音や交通での騒音」という意味でのノイズは、むしろ日本よりうるさいでしょう。

ここで言うノイズとは「重要ではない枝葉の雑音」のことを指しています。

例えば日本に住んでいる時は、色んな情報が自分の耳へ入ってきます。電車の中に乗っていても隣に座る女子高生の会話が耳に入り、お店に入ると日本語の曲が流れていたり、家に帰ると家族がテレビを見ていたり。それら殆どの情報が日本語で意識的に聞いてもいないのに耳に入ってきます。私がストレスなのは、全く重要ではない情報まで高確率で耳に届いてしまい脳の要領を食ってしまうこと。ノイズによる本質的ではない課題について悩むことが多くありました。

人の意見や周りの声を気になり本当の自分になかなかなれない。作った振る舞いの中で自分を押し殺して、それが無意識的にできてしまうからこそ目に見えない所でストレスになる。それをストレスだとも気付かずに。バイリンガルやネイティブの方であれば海外で暮らしていても日本と同じなのかもしれませんが、私は非ネイティブですし、ベトナムではベトナム語なので最初は挨拶すらわかりませんでした。街にいても、お店に入っても、家にテレビをつけても全ての情報が意味不明、頭に入ってきません。

そうなると日本に住んでいたときよりも圧倒的に脳の要領が空く気がして、
本質的な課題(自分の場合、仕事での課題や生きることに対する課題)に集中すること、それが確信に近い形でフィードバックが取れました。

ただこちらでも、知識が増えれば増えるほど、ベトナム語になれていく程多くの情報が入ってきて自動的に振り分けができないときつくなってしまうのか、ここでも長く住むとしたら段々わかってきてしまうと思うので、単なる飽きからくるものなのか、ノイズ問題は実験中です。

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無秩序、混沌さの居心地感

海外どこに住んでいても、日本では見ない光景を目の当たりにします。

ことホーチミンに関して言うと、足や手がない人が道端で座り込み物乞いをしていたり、繁華街にいくと拙い日本語で「いらっしゃいませ〜」がこれ見よがしに飛び交い、道路でも信号無視なんかは当たり前、日常茶飯事です。
特にバイクの走る量は日本と比較出来ないほど多く、それらがガンガン走ってきてクラクションなりまくりなのが普通です。

そんな無秩序感や混沌の中にいると、普通カルチャーショックや拒絶反応を示しそうですが逆に居心地の良さを感じてしまいます。(もちろん来た当初は驚きはありますが)

なぜ居心地の良さを感じてしまうのか考えた時に、特に日本に住んでいるからなのかもしれませんが、めちゃくちゃルール(暗黙知含め)が多い中で生活をしていてしがらみや同調圧力の閉塞感の中でがんじがらめ状態だからだと思っています。

というか、海外に来るまでは「日本は異常にルールが多い」ということすら気付くことができません。

生まれてから常識と呼ばれる範囲の中で生きてきて、外の世界が見えないからです。それ以外の選択肢という世界を知らないからです。メディア媒体を通して見る知っているというのと、自身の身体を通じて体感するというのは
「わかっている」臨場感がまるで違います。

日本に居場所がない人ほど
否定され続ける人ほど
馴染めない人ほど
異分子な人ほど

世界に飛び出したほうがいいです。

ほんとに、日本でしか生きてない上で入ってくる情報はかなり偏っています。世界でそれは常識ではありません。少なくとも「世界はそうは動いていない」というのを知れるだけで、とても安心することができます。

不安がすっと消える

上の2つの理由を話すと、それって日本に住んでいたほうが、環境自体はやっぱり日本の方が安全だし色々と整っているし良いんじゃない?と思われたかもしれません。

そうです。
日本より環境が整っている国は世界を見てもそうはありません。

ルールがあるということはインフラが整っていて、社会制度が整っていて、最低水準はものすごく高い。もちろん貧乏お金持ちの差はあれど、生きることには殆ど困らない。

ですが世界中の多くの国々は、法整備が整っておらず、交通・ライフライン・インフラが整っておらず、医療・福祉が整っておらず、衛生的にも良くない国が大半です。その無秩序な環境に飛び出され、直に触れた時に、
自分でも気が付かなった内なる生命力や適応力の根源に触れる感覚が確かに受け取れる気がしました。

26歳(2018年11月時点)にもなると、自我がある、自分という人間はこういう人間なんだ感を持ってしまいますが、そんなものは最初からないことに気付くことができます。自分が特別だという意味ではなく、それはすべての人に備わっていると感じます。

ただ課題は多いです。

文化、言語、歴史、生活環境
バックグランドの違いは、どうしても日本人との関係と同じようにはなかなかいきません。単なる言葉が通じない以前の前提認識が違い過ぎるからです。

それでも不安がすっと消えるのはなぜか、

この世界で死んでもいいやと思えたからです。

異国の地にきて、その国の言葉も文化も環境も何もしらなくても、自分を差し出せば多くの人が受け入れてくれます。少なくとも、私はそう感じることができました。

14歳からの社会学」にある「戦後の日本は共同体感覚からなる社会コミュニティが確かに存在していたが、今はその前提から崩壊している」という趣旨がありましたが、無秩序で混沌の中で何もないからこそ、共同体感覚が強く存在できるのかもしれません。

日本もかつてはそうだったのでしょう。

この主張は成熟社会や先進国ではハッピーになれないのか?
と言っているようですが、そうではありません。具体的な指針やビジョンは自分の中ではまだ見えていませんが、必ず道はあると思います。

そう信じて

自分のアイデンティティやルーツはあくまでも日本にあり、日本人であるということの自負と誇りは忘れずに持ち続けて生きたいです。

答えの出せる人間になること。

自分の器が限られた環境の中で限界を感じていたら、恐れを乗り越えて世界へ飛び出してみるのもいいかもしれません。

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