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岡井隆歌集『鵞卵亭』を読んで
『鵞卵亭』は一九七五年、岡井隆が四十七歳の年に刊行された。あとがきには「七○年と七五年の作品のアマルガムである。」とある。アマルガムとは合金のこと。一九七○年、九州へ移住して作歌を中断したあとの「再誕」(篠弘「再誕岡井隆論」)第一冊目の歌集といわれる。六つの章、137首から成り、「鵞卵亭日乗」以降の作品が「五年間の作歌の空白ののちに詠まれたもの」(篠弘、同前)ということだ。
「浪漫的断片」にみ
ふくらむ時間(2003年)
十六歳の時に短歌を作り始めてから十年間、ずっと新仮名遣いを用いていた。昨年八月に出版した第一歌集『草の栞』は、だからすべて新仮名遣いによる歌集である。意識的に選んだわけではなく、当初それが自分にとって自然だったからだ。古典の時間に習う歴史的仮名遣いが、自分を表現するのに都合の良いものとは思えなかった。
ところがここ数年、しだいに新仮名遣いでの作歌に違和感を覚えるようになってきた。一年ほど前から
「子の会 十周年ノ記」を読む
「短歌人会」メンバー有志の勉強会の十周年記念誌。
○巻頭にゲストとして四名の編集委員の五首+エッセイ。それぞれに含蓄がある。
木香薔薇を昏く描く画家あらわれて背中をみせてゆめに絵を描く/内山晶太「沸点」
ぐいぐいと音はせずともぐいぐいとうごくモビールの下に人待つ/生沼義朗「方位」
バスで離れた駅の歯医者に削られて麻酔の口で徒歩でかえった/斉藤斎藤「じりじりと待つ」
土地褒めとしてのマラソ
『ぱらぷりゅい』を読む
『ぱらぷりゅい』は関西の女性歌人12人による同人誌。タイトルはフランス語で傘のことだという。
大きく三部の構成になっている。
「ぱらぷりゅい、詠む」ではメンバーの十二首とプロフィール。一人一首ずつを引く。
特急の通過したあと無事でいる人たちに降るこまやかな砂/岩尾淳子「あかるい耳」ヨーソロー!と大声だしてみたかった 泣き顔みたいな雲を見上げる/江戸雪「抱擁」彫ることのさなかに暗い砂が見え
3番線快速電車が(一歌談欒)
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)
下がって
なーんで命令されなきゃならないのという気分になります。だからひっかかる。仮に「下がろう」と呼びかけてみると、ひっかかり感が減ります。
理解できない人は
これもね、失礼でしょ。人のできる、できないつまり能力を云々するのはね。「理解しかねる人は」だとどうでしょう。ひっかからなくなりますね。
通過します
これはいいです。
九大短歌 第四号を読む
「九大短歌」は九州大学短歌会の会誌。
大学短歌会の発行する冊子を読むのははじめて。
まず、太宰府の吟行録があり、楽しそうでうらやましい。
歌会録、連作と続くが、歌会にも出され連作でも掉尾を飾る作品に魅かれた。
主なき千度の春に削られて飛べない梅に触れる霧雨/松本里佳子「千度」は「ちたび」と読みたいし、そうだと思うがルビがあってもよいのではないか。
会員作品
原因は二つじゃなかったのだろう
この森とは何処か #一歌談欒 3
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい/笹井宏之『ひとさらい』
大辻隆弘は評論集『近代短歌の範型』所収の〈三つの「私」〉という文章の中でこの作品ともう一首木下龍也の歌を挙げ、次のように述べている。
〈これらの歌を読むとき、読者は「作中主体」の奇矯な発言や特異な行動に心奪われる。彼らにとっては、一首の歌を詠んだ刹那に感じる衝撃力だけが重要であり、「私像」や「作者」には興味