見出し画像

女子校生だった話(1)

 今晩は。

 火野文子さんが制作してくれた漫画『Lost girls calling.』の公式noteアカウントで週1連載でコラムを書いてくれているので、私も追いかけ配信というか、何か書いてゆこうかなと思ったりしました。 私はこの漫画『Lost girls calling.』の原作者であります。

before breaking  

 兎に角子どもの頃は闇のなかを歩くかのような気持ちだった。甘えるのが苦手、要求を伝えるのが苦手、助けを求めるのが苦手、相手が何を求めているかには敏感だったと思うが、相手──基本的にはおとな──が自分をいつ怒鳴りつけるかには始終怯えていた。演技の笑顔が何枚も重なった。独りになったり、眠る前蒲団のしたで、枕に顔を埋めて長々と泣く。どうしても悲しかったから、涙はぽろぽろと止め処なかった。そういうことは他のひとにもよくあったのだろうか? 泣き明かした翌朝は二重瞼が腫れ上がって奥二重になるので、母は、「あんた、また泣いたの」と云った。

 冷静に考えて、母のその反応で良かったのか? 分からないけれど、私は誰かが恨めしいというような感覚は少ない。こんな子どもは扱いにくいに決まっている。私が悪い。そしてまた悲しくなる。

 死にたいというより消えたかった。カトリック教会が近所にあって日曜学校に通っていたので、自殺は禁忌だったということもある。が、むしろカトリックの我が罪の意識に負い目を持ち続けるという精神によって、私の性格は更に暗くなった。住んでいたマンションの非常階段を上がり、地面を見下ろすと、吸い込まれそうで眩暈がした。……でも飛び降りなかった、私はただの平凡な子どもで、何かしらをすることなんて無いのだ。自分は行動するべきではない。誰が縛ったことなのだろう、たぶん自分だ。
 お前は不幸ではない! 環境は私にそう云っていた。実際、そんなに悲しむべきことなど無かったような気がする。いつも感謝を忘れてはならない、そんな心になるべく教育されていた。恩知らずになってはいけない。

 分かり易い不幸を持っていないのに悲しくなる人間は、何も発声することが出来ない。少々難ありだが五体満足でご満足でしょうが。食事があって、学校があって、服がある。

 でもどうしても悲しい。

 暗い子どもだった。ただの暗い子どもだった。普通に云って、鬱だ。
 しかしそこそこ演技が出来たので、表向きは苛められるべき暗い子どもというより、学級委員長だったり、ふたりの弟と揃って小学校で「三姉兄弟」と呼ばれたり、胸を張れることは何も無いけれど、暗過ぎて迷惑を掛けまくったというほどではないと思う。
 子役になりたいなあと思った。演技、巧いんだよなあ私。勿論、オーディションを受けさせようと両親が思うことなど無いのだけれど。

 それが中学までだった。

 中学1年生4月。
 これは結構疼く期間として記憶している。私は中高一貫教育の女子校に入学していた。小学校からの内部進学だったので、いきなり知らない生徒たちに紛れたわけではなく、むしろ半数は知っていた。それでも新しい環境の所為と云えば良いのか、私は今までに無く塞いだ。

 中学1年生4月。

 独りでお弁当を食べ、独りで下校の道を辿り、或る夜、母と一緒に入っていた風呂で、浴槽で堰が切れたように泣き出した。うぇっうぇっと泣き出した私に、最初は母も驚いたが、風呂を上がってもパジャマを着ながらも泣いているのでもう何も云わなくなった。何か云って欲しい察して欲しいなどという感情は無かった。両親はその類いのケアをしてくれることは無い。

 ひとが怖い。学校が怖い。誰とも理解し合えなくて怖い。
 それは淋しいのかも知れないけれど、お弁当は独りで食べていたけれど、下校は独りでとぼとぼ歩いていたけれど、孤独というより、みんなのことが怖い。私が周囲を不快にさせているようで怖い。分かり合えないし知り合えない。怖い。私は誰にとっても良い存在ではない。

 怖い。四月。息の根が止まるほど泣いた、中学一年生の四月の夜。どうしようもない閉塞感。
 翌朝、目の周りの毛細血管が沢山切れていて、腫れた瞼の周りに痣のようになった。そんなことで学校を欠席することは許されていなかったので、私は重いかおを付けた頭を首に乗せ、その日も登校した。

 本当は淋しかった。誰もいなかった。
 私の心がある場所には、誰もいなかった。
 自分は異物だと思っていたけれど、自分はひとより特別だとは思えなかったから、何か特別に扱われる行動に出ることは出来なかった。何もかも怖い。誰にも頼れない。淋しくて堪らない。消えたい。

   Δ

 中学は給食が無くて、4時限目が終わるとみんな自分たちのお弁当を持って机を動かし寄せ合う。心なしか浮き足立つような空気になる。そりゃあ給食は苦痛もあるものだし、それに比べて好きなおかずが入っているかも知れないお弁当を好きな席取りで食べられるのは楽しいだろう。ふと、軽々とそのハードルを飛び越えた生徒が、私を呼んだ。

「いずみちゃん、もしかしてお弁当ひとりで食べてへん?」

 元々小学校から持ち上がりだった生徒が多かったので、彼女とは小学2年生のときから仲が良かった。家に遊びに行ったり、クラブ活動が一緒だったりした子だ。貶めるわけでもなく哀れむわけでもなく、自然に彼女は云った。

「こっち来て一緒に食べようやん」

 彼女は5人で食べている寄せて丸くした机のなかに、私の為の椅子を寄せた。

「あ、……ありがとう」

 この教室にいる自分が、異質物に思えて堪らない。けれど、彼女たちは私とかおを合わせて食事をすることが出来る。いつ嫌われるか分からない恐怖もあるが、別に彼女たちはいつまでも嫌ったり苛めてきたりしなかった。だって気立ての良い子どもだちたっただろう、勿論。

 色々と闇のなかだったけれど生きていられたのは、同級生たちのお陰だと思う。彼女たちは皆、優しかった。本当に今思うと、彼女たちに感謝しているし、大好きだなあと思う。私はこのあと中学3年まで、浮き沈みしながらも一応生き延びることになる。

   Δ

 担任の教諭は自身の工夫でわざわざ学級文庫を設えてくれていた。小学校では当たり前だった学級文庫だが、この中学では担任の意向に依ったらしい。だから入っていた本は担任の私物である。

 悲しくて悲しくて堪らなかった4月、その本棚で高野悦子に出会った。

 学生運動、キャンパスの孤独、生きること、そして鉄道自殺。これ以後、私は毎年、新しい年が始まると高野悦子を読み返す。

 名著と呼ばれる文芸書から随筆、対談集、ファッションエッセイの並ぶその本棚には、絵本『ねずみくんのチョッキ』があった。チャーミングな女性の担任の先生だった。

 みんな可愛らしくて担任までチャーミングで、それでも私は何処だか分からない場所で三角座りをしていて、そこには誰もいない。私が入れてあげないからだ。

 鉄道自殺のことは何度か考えた。
 京都で利用していたのは市バスと市営地下鉄烏丸線が主で、この路線は人身事故というものが殆ど無い。だからあまり誘う雰囲気が無かった。線路で横たわっていたら……眠っていたら一瞬で……、ときどき考えたけれど、線路のある場所まで未だ行かなかった。

 中学生。生き延びた。

(続く)

サポートしていただくと、画材・手工芸材などに使わせていただきます。もっと良い作品を届けられますように。