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最後の本屋|掌編小説

 大いなる自然は人が作った物じんこうぶつを憤怒で囲っている。都会を都会たらしめる、速やかで流動的な生活の面影はもう無い。自然の怒りをさらに遠くへと運ぶ風。それ以外の全ては静止してしまっている。

 しかし、人類とは自然と共に生まれたもの。この世界が巡る限り、簡単には見放されるようなものではない。生き残りはいる。ただ、いつまで持つかは誰にも分かりえまい。

 生存者たちは、残った建物への入り口を通るために、絡まった枝葉を破いて進む。自然は、この試練をさらに困難なものにしようと模索しているから。枝葉との揉み合いの末、人類の生き残りたちは一時ひとときの安息と懐かしさを覚える。人類が作った傑作だと言われる品物たち。ある物は、原始時代から続く外敵の養分を詰めたものだったり。この世の不思議な原理を応用して、人類に新たな能力を携えさせる物だったりする。

 人が作った物じんこうぶつは数知れないが、生き残った人の間では重宝されない遺物もある。この試練において、必要性を問われる物ばかり。中でも最も哀れな品は「本」と名付けられたもの。生存のためのあらたな手がかりが記された本は読まれるが、残りは全て火を焚べるためにのみ用いられる。空想に浸る素朴な快楽を、多くの生存者は求めないから。

 ただ、例外はいる。その存在は謎に包まれていて、長い時を生きてきた自然にすらその正体は掴めない。生き残った人類と同じ姿形をしているが、自然の緑によく紛れる。眠ることもなければ、摂ることもしない。人の手を模った部位にはいつも本があると、目撃した者たちは口を揃えて言う。その住処は、過去の人々をおもてなしした建物の中の一角。用無しだと言われる本たちに溢れた一角だ。

 その存在の元に、客人は滅多に来ない。来た際には、表情を人間らしく、豊かなものを見せてくれる。一番最近の客人は、若い男と幼い女子の二人組だった。簡単で絵がたくさんある本を所望していた。不思議な存在は、物思いに耽るように一角の中を歩いた。そして、赤い本を棚から取り出し、若い男に手渡した。対価のことを若人に聞かれて、謎の存在は他の本を指差した。この一件以来、新たに青い本が棚に加わった。

 珍しい客人たちは皆、本全般、あるいは一つの本に対して、何かしらの思い入れがある。懐かしく愛おしそうに、思い出を話す客人たちを見ては、店を囲む自然と共に花を綻ばせる。そんな店員のような謎の存在は、食べ物や道具などの物資を一切要求しない。ただ、本の交換だけ求める。客人たちは訪れる際、毎度、本にまつわる自身の物語を語った。不思議な店員は、いつもカウンター越しに穏やかな顔をしながら聞き入った。

 本の交換が行われると、謎の店員は新しく歓迎した本をすかさず読み始める。読み終わった後は、紙魚や傷が一切無くなっている。まるで新品のように、パリッと綺麗な状態。読み終わった本は棚の開いているところに滑り込ませ、すぐにまた別の本を通り出し、読み始める。

 この一角の中には胞子も植物も無い。野生生物や人の生活感も無い。それでもなお、存在し続ける。大いなる自然の憤怒が降り立ったあの日から、ずっと。その誕生秘話も存在意義も、誰も知らない。ただ一つわかること。それは、本と本の虫にとっての避け所であること。本の虫たちの間で、この一角は「最後の本屋」と呼ばれている。読んでわかるような看板は無いが、見たらおおよそ見当はつく。ショーケースが枝葉や苔に侵食されていない、建物の中で唯一綺麗な所だ。

 試練の終わりはいつになるのか。この一角の主には関係のないこと。カウンターの向こうで、常に座って本を読み続ける。言葉を発することなく、眠ることなく、摂ることなく、留守をすることもなく。棚に並んだ本たちも共にじっと居座るのだ。風化することなく、土や塵の匂いを凌駕するような癒しの香を放ちながら。長い一時をたった一人で留まり続け、自然の理に囚われない。まさに、謎の存在。

 もし、道中で見つけることがあれば、必ず本を持って訪れるように気をつけよう。さもないと、その一角の扉は温かく歓迎してくれないかもしれない。最後の本屋とその主は、自然の君臨が復活する中、同じ本を愛する仲間をいつまでも心待ちにしている。人が作った物の中で唯一、自然が存在を祝福をしたのが、本たちなのだから。

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