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【今でしょ!note#11】 1951-55年 復興から自立へ (経済白書から現代史を学ぶ その2)

おはようございます。林でございます。

前回は、第二次世界大戦直後の日本経済について、戦後の物資不足、財政難、企業会計赤字、ハイパーインフレ・・・という中で、新円切替政策・預金封鎖というパワープレー、アメリカによるトルーマン・ドクトリンと呼ばれる共産主義封じ込め政策とドッジラインによるインフレ抑制、1ドル360円の固定為替、朝鮮戦争特需により、荒廃していた日本経済が飛躍的に回復した流れをご紹介しました。

今日は、日本が55年以降の高度経済成長に入っていく一歩手前の時代について解説していきます。


50年代に入り直面した新たな問題

第一次ベビーブームと呼ばれる1947~49年を経て、戦後の本土帰還者が溢れていた当時は、人口が多すぎるのが問題となっていました。
当時、適正人口は4,500万〜5,000万人と言われていたのに対し、7,400万人の過剰人口でした。

国内生産力が落ち、必要な物資は外から輸入して補う必要がありますが、輸入に必要な外貨がドンドンなくなる超貧乏国家でした。
その後の朝鮮戦争で、繊維・トラック・鋼材等の輸出が増えて国際収支が改善してきましたが、51年には世界的に朝鮮戦争景気に対する反動傾向で生産調整がかかり、日本の成長も鈍化しました。

アメリカは、地政学上日本を西側諸国の重要地点と捉え、経済的に自立させる狙いがありましたので、日本経済の戦争景気依存からの脱却を図るべく、日本からの戦争物資の買付を停止。結果、先物取引は急落し、貿易商社・繊維商社の中でも倒産する企業が出て、不況に陥ります。
50年代前半は、朝鮮戦争特需で稼いだ金を原資とし、真っ当な投資と消費に支えられる経済への回復が新たな課題となりました。

特需依存から民間投資による経済回復へ

51年には朝鮮戦争景気に対する反動で輸出が停滞しましたが、特需で企業の内部資金が入ってきたので、民間企業は講和条約による独立後の経済発展を見越み、海外からの技術導入・積極的な設備投資を伸ばしました。

52年以降、民間設備投資は盛り上がりを見せ、電力開発を進め、水力・火力発電ともにドンドン開発します。鉄鋼は、川崎製鉄などの積極的な高炉建設が見られ、重工長大の工業力が回復してきます。化学系も技術導入が進み、ナイロン・ビニロンといった合成繊維の量産が53年よりスタートします。

個人の投資ブームも到来し、投資して資本所得を得ることで個人所得も増えていきました。戦後の財政悪化による重税が減税され、消費も増大し、53年の一人当たり実質消費水準は、戦後初めて1934~36年の水準に戻りました。

背景には、アメリカが日米経済協力のもと、日本をアジア安定の切り札にするべく支援したことがあります。
51年1月にダレス特使が来日し、同年9月にはサンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約が調印されました。
これにより、それまでGHQが抑えていた850の旧軍事工場が日本政府に返還され、うち民間賠償指定を受けていた709の工場が民間に返却されました。
民間企業が造船などの重厚長大産業のインフラが再び使えるようになったことは、その後の復興に大いに役に立ったのです。

企業の投資を後押しする「特別償却制度」

企業の設備投資を加速するため、52年に企業合理化促進法が交付され、重要産業の近代化設備に対する特別償却制度・固定資産税の減免が開始されます。

特別償却制度は、初年度に半分の原価償却費計上を可能にするものです。
本来の原価償却の考え方では、例えば10億円の設備を購入した場合、10億円すべてを購入年度の経費にせず、設備の耐用年数に応じた按分費用を経費に計上します。
耐用年数が10年の場合、初年度に10億円のキャッシュアウトがありますが、会計上は毎年1億円ずつしか経費計上できません。
そのため、初年度売上が5億円の場合、利益は4億円となりますが、特別償却の場合、初年度に半分の5億円を経費化可能なため、会計上の利益を0にできます。
そのため初年度は、利益額に応じた法人税の実質的な減税効果があるのです。

当制度により、設備導入して売上がたくさん上がっても、経費をたくさん詰めるので、その分現金を残せることになります。企業の近代化設備投資を促すインセンティブ設計となっており、入口で補助金を配って投資を促す形ではなく、民間に投資させ出口で減免する効果的な制度設計です。

国際収支の天井

国内物資消費の増加は、海外輸入の増加につながります。
朝鮮特需収入が停滞し、53年には総合での国際収支はマイナス、外貨準備高も急減し、「国際収支の天井」にぶつかったと言われています。

輸出により入ってきたドルは、国庫としてそのまま外貨準備に積み上げますが、輸入の際には、ドルを支払う必要があります。消費が増大して輸入が増えると、当然外貨準備が減っていきます。

国際収支赤字が続くと、外貨準備のドルが底をつき、輸入が出来なくなってしまいます。国内では消費需要がある一方で、物資を外から調達できない場合、急激なインフレを引き起こすので、経済成長継続のため、構造的な転換の必要に迫られました。

53年秋から金融・財政の両面からの引き締め政策が取られるようになります。日銀は貸出抑制策を取り、財政も緊縮財政となりました。
例えば、公共事業と食糧増産対策費を1割削減、財政投融資(ゆうちょ運用投資)を2割削減、54年度の輸入計画を1割削減、といった政策です。

「国際収支の天井」問題を抱えながら、企業の営業担当は、海外に行きどうにか輸出を高めないといけない。一方で、輸出を高めるのに使える国の外貨準備にも限りがあるので、海外に持ち出せる外貨量の制限を受けながら、戦っていたのです。

戦後激動の10年間

朝鮮戦争が53年7月に終結し、アメリカからの特需受注がなくなりドルが入ってこなくなった結果、国際収支の天井にぶつかり、設備投資及び高付加価値生産により海外から正当に外貨を稼ぐ国にならないと、成長が足踏みするという問題に直面した53年でした。
54年後半より、国内景気が回復に転じ、54年全体では、鉱工業の生産・実質消費がそれぞれ3.5%、4.8%増加しました。

52年に外貨危機が起こり、53年は経済が冷え込み、54年から世界的に景気がよくなり輸出を増やせたことで、日本の内需も戻っていきました。
「海外需要増加→輸出増加→外貨準備増加→輸入増加→国内消費増加」という流れでの回復をし、55年~60年代に続く高度経済成長の先駆けとなりました。

55年に入ると、物価安定の中で経済が10%成長、国際収支はついに黒字化し、鉱工業生産は戦時中の最高水準に達します。国民一人あたりの消費水準は戦前の1.14倍まで伸びました。

ここまでの流れをまとめます。

  • 戦後の人口増加で餓死者も多く出る中、朝鮮戦争特需により軍需工場を再稼働させ、貿易輸出による外貨獲得につなげた

  • 特需に依存しない輸出産業育成に転換した結果、国内消費が伸びて国際収支の天井にぶつかった

  • 世界的にも戦後の消費拡大傾向に入り、日本も輸出を強めて外貨準備問題を解決し、国内消費拡大ができた

  • 国は、特別償却、固定資産税免税、個人の減税などのインセンティブ政策を取り、企業投資・個人消費が拡大した

戦後の焦土状態から、たった10年での回復を達成したことで、翌年56年の経済白書には「もはや戦後ではない」と語られたのです。
次回から、いよいよ高度経済成長期に入っていきます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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