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【今でしょ!note#12】 1956-60年 高度成長の開始 (経済白書から現代史を学ぶ その3)

おはようございます。林でございます。

今週から連続で配信中の「経済白書で読む戦後日本経済の歩み」シリーズの続きです。

これまでを簡単に振り返ると、1945~50年では、戦後の経済ボロボロ・財政めちゃくちゃ・国際収支大赤字・国内ハイパーインフレ状態から、新円切替・預金封鎖・ドッジライン・1ドル360円の固定為替、朝鮮特需により一定の回復をしました。
その後の1950年代前半では、高度成長に入っていく手前で直面した特需依存からの脱却、特別償却制度等の企業の投資インセンティブ向上、内需増加に伴う輸入増により、国内の外貨準備不足に陥った国際収支の天井などの課題に立ち向かいました。

戦後の現代史における過程で構築された社会インフラや制度は、現在にも残っているものが多く、一般的な経緯をおさえておくことで世の中に対する見え方の解像度が上がる実感がありましたので、一通り自分の言葉で再編集して整理しておきます。

今日は、いよいよ高度経済成長の初期です。


神武景気:54年12月~57年の急速な景気拡大

55年は、約3分の2の議席数を占め、政権を握る自由民主党と、野党の日本社会党の左右統一の2大政党が対立する政治体制、いわゆる55年体制が始まった年です。また、現在に続く春闘は、55年からスタートしました。
55年の輸出に牽引された景気は、56年には民間設備投資の未曾有の増加、三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)の登場による旺盛な消費に支えられた神武景気に変わり、高度成長の幕開けとなります。

56年の経済白書では、「回復を通じての成長は終わった。今後の経済は近代化によって支えられる」と指摘しています。
この頃から、近代化における輸出、技術革新を体化した活発な民間投資、旺盛な消費需要に支えられた高度成長の時代への突入していきます。

55年12月に政府が公式に閣議決定した最初の経済計画「経済自立5カ年計画」の想定成長率と比べると、国民所得および消費は2倍以上、生産・輸出は3倍、輸入は5倍、投資は8倍というテンポで拡大しました。

「国立社会保障・人口問題研究所」のレポートより抜粋
5年計画を大幅に上回る成長率で、策定後2年で「新長期経済計画」の策定となった
https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/sh030206.pdf


あまりにも拡大が速く、預金超過から貸出超過に逆転します。
これは、企業の投資意欲の急速な増大により、自社の収益だけでは投資が追い付かず、投資の原資を銀行からの借入に依存したためです。
自己資本に対する他人資本の比率が拡大し、銀行は増大する資金需要を預金増加だけでは補えず、日銀借入への依存を強め、オーバーローンとなりました。

また、生産の隘路にもぶつかります。
特に、鉄鋼・電力・輸送系の生産がボトルネックとなり、石炭・機械工業などの一部の熟練工の確保にも隘路に陥りました。
行きすぎた経済拡大により「内需拡大・企業投資急増 → 輸入急増 → 国際収支悪化」の流れを引き起こし、金融引き締めが行われることになり、57年6月をピークに後退局面に入りました。

岩戸景気:58年7月~61年12月の急速な景気拡大

金融引き締め、輸入の激減により、57年末には国際収支は改善し、生産が回復し始めますが、企業の在庫率が以前高かったことから物価の下落が続き、なべ底景気と呼ばれる時期が続きます。
その後なべ底を脱却し、58年夏から神武景気を上回る岩戸景気と呼ばれる繁栄期を迎えます。

岩戸景気は「投資が投資を呼ぶ」と言われたように、設備投資の高成長による輸出の伸びに牽引されました。
電力・鉄鋼・輸送等の生産設備能力が増加したことで、神武景気のように生産のボトルネックも招かず、消費・輸出は多様化しました。

この頃、都市や農村の零細経営者・家族従事者等の不完全就業者が191万人存在し「よりよい就職先があれば転職したい」と考える人も多く、労働力の豊富な供給も景気を後押ししました。

59年9月には、準備預金制度(金融機関に対して預金の一定比率以上の金額を日銀に預け入れることを義務付ける制度)、公定歩合(日銀が金融機関に資金を貸し出す際の基準金利)引き上げ等の予防的な金融政策も取られ、42ヶ月におよぶ持続的な景気拡大が続きました。

56〜60年のスパンで見ると、年平均成長率は9%程度と高度成長が定着します。
「景気過熱 → 国際収支赤字の拡大 → 金融引き締め → 国際収支が改善 → 金融引き締め解除 → 景気はV字型回復」というパターンが定石になりました。

景気循環メカニズムの理解を深めた「在庫論争」

この頃注目されたキーワードとして、「在庫論争」があります。
在庫論争は、57年の国際収支悪化の原因をどう見るか、という論点を巡って始まります。

「金融財政事情」に連載された下村治氏の論文では、「56年のスエズ危機への対処として、企業が輸入原材料在庫を累増させたことによるものに起因するため、国際収支悪化は一過性のもので、自然に好転する」と主張しました。
これに対し、当時の経済白書執筆責任者の後藤誉之助氏は、「輸入急増の原因はむしろ企業の設備投資の増大にあり、景気政策の介入なしに自動的に好転するものではない」と主張します。

論争の黒白を事後的にも決定するのは難しく、その後の金融引き締めが果たして不要であったかどうかは分かりませんが、実際に引き締め後すぐに物価低落・輸入激減したことで、当時の下村説の正しさを印象付けました。
この論争を通じ、後の景気循環メカニズムに対する日本経済の理解が格段に深まりました。

産業構造と金融構造の変化

産業構造の変化

高度成長下の構造変化として、資源・資本・労働力の転換が引き起こされ、産業分布が変わったことも指摘できます。
産業構造高度化により、55年までの電力・石炭・海運などの基礎産業から、化学・金属・機械などの製造工業への比重転換、エネルギー革命進展による石炭から石油への転換が進みました。

企業の設備投資の強成長のみならず、耐久消費財の急増という変化も見られます。
家計消費における重化学工業製品の支出は、55年に比べ60年には2.4倍になりました。耐久消費財の誕生は、大量生産を可能にし、生産性を各段に上昇させ、価格低下をもたらします。
また、それまで長年の懸案だった過剰労働力は、高度成長の中で吸収され、安い賃金で良質な労働者を雇うことは難しくなりました。

金融構造の変化

金融構造も変化し、大企業は銀行借入依存から自己資本充実に舵を切ります。
中堅企業も、自社株式を公開し、資本市場に乗り出し始めました。
一般消費者も、預金だけでなく借入を行い、貯蓄も預金だけでなく、株式・投資信託に向かい始めたのもこの頃です。

金融政策も、それまでの窓口指導(日銀が民間金融機関向け貸出額に上限を設定することで、市中通貨量をコントロールしようとする政策)一本槍から、コール市場・社債市場の正常化、金利機能の活用が求められるようになったのもこの頃です。

今では当たり前となっていることが、様々な場面で新たに起こり始めたのが、高度成長初期フェーズとなる1950年代後半と理解しました。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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