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変身

 彼氏が牛になった。朝からひっきりなしに牛乳を出しているから思わず飲んでみると、やっぱりおいしい。

 小学校に上がったばかりの息子も牛を気に入ったようで、背中に乗せてもらってご満悦である。息子は別れた夫との子だ。思えば、結婚時代はひどいものだった。それまで優しかった夫が役所で婚姻届を出すや否や、途端に高圧的になった。どんどん冷たくなって、温厚だったのに怒りっぽくなって、それでも別れられずにいたが、私が子供を宿したことを知るや否や家を出ていったのだ。何であんな男と結婚してしまったのだろう?今ではそう思う。

 今の彼と付き合ったのは、息子を産んで間もない頃だ。職場の同僚であった彼に、シングルマザーの辛さや厳しさを愚痴っていると、自分が力になると言ってくれた。最初は口先だけかと思っていたが、休日に息子の面倒を見に家に来てくれるようになってから、私たちの距離は急速に縮まっていって、付き合うようになった。なんでも、結婚する前から私のことが好きだったらしい。本当、なんであんな男と結婚したのだろう?

 彼と付き合ってから数年が経った。いい年した二人の男女がこれだけ長い間付き合っていれば結婚の話が出てくるのが普通なのかもしれないけれど、私たちにその気はなかった。結婚なんてしなくても、今の関係がずっと続いていればそれでいいと考えていたからだ。あるいは彼は結婚したかったのかもしれないが、結婚生活にいい思い出を何一つ見いだせない私を気遣っていたのかもしれない。それでも、彼と息子と、三人で暮らすことができればそれでよかったのだ。

 そんな折、私は息子の面倒を彼に任せて買い物に行った。大人が二人居るとこういう時楽だ。そう思っていたのだが、うっかり財布を忘れていることに気付いて私は家に戻った。その時、私は見たのだ。彼が息子に暴言を浴びせているのを。

 いや、もしかしたらそれは「暴言」と言うほど酷いものではなかったのかもしれない。「おい」「うるさい」「お前」私の耳に入った単語はこれだけだ。考えすぎなのかもしれない。重く受け止め過ぎなのかもしれない。でもさ、いつもは息子のことを名前で呼んでいて、「おい」の代わりに「ねえ」、「うるさい」の代わりに「静かにしようね」と言っている人が口調を変えるって、ただ事じゃないんだよ?いや、一体私は誰に向かってこんなことを言っているのだろう?

 私はすぐに息子を連れて家を飛び出した。彼が何か言っているような気がしたけれど無視した。ただでさえ息子には苦労を掛けているのだ。息子を守れるのは私しかいないし、私が息子を守らなければならない。そう思う一心だったのだ。彼から連絡がきたが全て無視した。その日は駅前にあるビジネスホテルで息子と二人一夜を過ごした。

 本音を言うと私は家に帰りたくなかったのだけれど、実家は遠く離れていたから頼れなかったし、友人なり知人なりの家に泊めてもらうにしても、いつまでもそんなことは続けられないだろう。それに、彼と別れるにしても一回話し合う必要はある。だから一度私は家に戻ることにした。彼が何を言うかは分からない。謝るかもしれないし何も言わないかもしれない。もしかすると、彼の方が既に家を出ているかもしれない。いずれにせよ、私はこれ以上彼と付き合い続ける気はなかった。「悪かった」「たまたま」「どうかしていた」「ごめんなさい」……何を言われても、息子のために彼と別れると固く決心していた。そして玄関の扉を開くと、そこには牛がいた。

 牛になった彼は、とても穏やかだ。昔外国で闘牛の試合を見た私は牛に対してどこか荒っぽいと言うか、危険なイメージを持っていたのだけれど、あれはそうなる様に訓練された結果であって、牛とは本来平穏と共に生きる動物なのだ。私は息子を苛める男は嫌いだが、モオーと鳴きながら息子を載せて散歩をしてくれる牛は嫌いじゃない。三人の生活が、二人と一匹の生活になった。そして、私たちはもっと幸せになった。それだけのことだ。

 それまでの仕事を辞めて、私は今牛乳を売って生計を立てている。どうやら人間が変身した牛は美味しい牛乳を出すことで有名なそうで、愛好者は絶えないのだ。どこかの宗教では牛は崇拝の対象になっているそうだけど、実際に牛を飼ってみるとそれも当然のことだと思う。毎日牛乳を出してくれる。穏やかに息子と遊んでくれる。悪口の代わりに口にするのはモオーだけ。こんなに素晴らしいパートナーは他にいないだろう。息子も明るくなった。こんな生活がいつまでも続いてくれればと思う。

 一つだけ気がかりなのは、牛が人間に戻ってしまう可能性だ。人から牛になった場合、ほとんどはそのまま牛として一生を終えることになるが、ごく稀に人間に再度姿を変えることがあるらしい。そうなったらどうしよう。幸せな生活は終わりを迎え、表面だけ取り繕った偽善者との日々に逆戻りだ。いや、もっとひどいかもしれない。人間に戻っても牛でいた時の記憶は保持されるから逆恨みされるかもしれない。どうしようかと友人に相談すると、素晴らしい答えを見つけることができた。

「牛肉にして食べちゃえ」

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