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O大学のS教授

  私はS教授、いや、S元教授の家に招かれていた。S氏はもともとO大学の文学部で長らく教授をしていたのだが、とある雑誌に寄稿した記事が、その当時世間を騒がせていた事件の被害者や遺族を直接的に侮辱しているということですさまじい批判を浴び、大学教授の地位を追われて世間から姿をくらました。以降の消息は途絶え、死亡説すら流れているがそれはまるきり間違いで、あの騒動から二十年近く経った現在でも存命中である。

 ただ、歳のせいかひどく認知症が進んでおり、まともに会話などできるはずもない。とは言え、このままではS氏は「被害者に対して許されざる侮辱をした、知性の欠片もない最低最悪の大学教授」として後世にその名を残すことになるのは避けられまい。ということで、趣味でちょっとしたインタビュー活動を行っている私が、S氏の名誉挽回を願いつつ彼の妻に取材を申し込んだところ、思いのほか許可が下りたので、こうしてO市にある彼の自宅へ来ているのだ。

「正直な話をするとね、ボケていてもボケてなくても主人と一緒にいるのは疲れますよ、本当」

 S氏とは会話もままならないので、今日は代わりに彼の奥さんに話を聞いている。S氏は奥さんの隣で口を開きながら座っている。

「だってこの人ときたら、多分自分の学歴を誇りたいんでしょう。昔からねえ、殊更自分の知識を披露しては私や息子のことを馬鹿だと言っては悦に浸っていたんです。何回離婚しようと思ったかも分かりません。まあ、ちょっとこちらが強くでるとすぐに謝る程度には小心者だったから、もう慣れてしまいましたが、それでもうんざりしますね。今ではもう話をすることも殆どできませんけど、大人しい方が百倍も利益のある人ですから、それで良かったのかもしれません」

「ご主人はいつからこのような風に?」

「ボケ始めたのはもう十年以上前。こんなにひどくなったのは、四、五年くらい前からかしら。食べ物食べたりお風呂入ったりは手伝いながらだと出来るんだけど、まるきり会話が通じないんですよ。こっちが何か言っても反応なし。向こうが何か言って返事をしても、やっぱり反応なし。もしかして死んでいる?って思ったことは数知れないですね。まあ、中々逝かないんですけど。身体的な機能は歳の割には衰えてないのかしれませね、まあ私の想像だけど」

「Sさんは精神的な疾患をお持ちなのですか?」

「そうだろうねえ。ほら、あなたもご存知のあの事件が起きてからすぐに主人は大学を辞めさせられたでしょう。それから主人はおかしくなってしまったんですよ。多分、自分がしょうもない記事一つで教授の肩書を失ったのが相当堪えたんでしょうだろうねえ、それからというもの過激な記事を書いては炎上商法ばかりする人になってしまったんです。それまでもまあ大口を叩くことはあったんですけど、それがもっと酷くなって、インターネットに変なことを書いては小金を稼ぐような人間になってしまって。それだけなら我慢できたかも分かりませんけど、仕舞には私にも怒鳴り散らかし始めたんです。とうとう嫌になって独り立ちしていた息子の元に身を寄せてもらっていたんですけど、一年くらい経ってからかしら、私も私で馬鹿な話なんですけど、何だが心配になってこっちに戻って来たんです。主人は体こそ健康でしたけれど、もう以前とは打って変わってしまって無口な、というよりものの言えない人間になってしまったんです……。あ、こら!」

 そう言うと奥さんは今まさにズボンを脱ごうとしていたS元教授を止めに行った。驚きながらも黙ってその場を見ていた私に、奥さんはきまり悪そうに笑いながら言った。

「主人はボケてからね、汚い話で申し訳ないんですけど、うんちを顔に塗り手繰る癖ができてしまったんですよ。もちろん私がいれば止めますけれど、四六時中側にいる訳もいかないから大変で。これが嫌で何度老人ホームに送ろうと思ったかもわかりませんよ。ただ無理やり家から出そうとすると馬鹿みたいに泣きじゃくるものですから、もう私も面倒くさくなってしまって、極力放っておくことに決めたんです。介護は大変なものですね」

「大変なご苦労で……それで話が変わりますが、S氏が自分のしたことについてどのように思っていたかをお話し頂けますか?勿論今となってはそんなことを考えることもできないのでしょうが、それ以前はどうでしたか?反省していらっしゃいましたか?」

「いいえ、ちっとも。心の中でどう思っていたかは分かりませんけどね、少なくとも私にはとても反省している素振りには見えませんでしたね」

「開き直っていた、ということですか?」

「それもちょっと違うかな。実は私も主人に聞いたことがあるんです、何故あんなことを書いてしまったのかって。すると何て言ったと思います?お前なんかにそんなこと言う筋合いはないって。それで私も怒ってね、怒鳴ってしまったんですよ。すると突然、主人はまるで赤ん坊みたいに泣きじゃくって。鼻水垂らしながらね。だから多分、あの人は自分のしたことを忘れたかった、なかったことにしたかったんだと思いますよ。そんなことできるはずもないのにねえ」

「奥様はSさんのしたことについてどう思われますか?」

「恥ずかしい話ですよ。主人は立派な人間ではないにしろ、学識のある知的な人間だとは思っていたんですけど、それもさっぱり間違っていたんですね。さっきも少し話しましたけど、本当お金のことがなければとっくに別れています。息子が主人の悪い所を受け継いでいないのが、唯一の救い、ですかねえ」

「Sさんはあの事件の被害者や遺族に対して、記事の件について謝罪の言葉を公式に発表していませんが、プライベートで何かメッセージを出したりはしましたか?」

「そんなことをする人ならあんなこと書いてないよ」

「なるほど……Sさんはあの記事について奥様にも何もお話しにならなかったということですね」

「あ、けど一つだけありました。といっても、彼の方から何か言ったんじゃないですけど、Sが大学を首になってから二年くらい経った頃かしら。ある日彼がスーツ姿で出かけて行ったんですよ。その時には彼は仕事がありませんでしたからわざわざそんな姿で外に行く必要のある用事はないはずなのに。けれど私も一々どこに行くかを聞いたりはしません。面倒くさいから。それで、彼が家に戻って来たときね。何か言葉を交わした訳じゃないんですけど、彼の目が少し赤ばんでいたんです。それを見て私はねえ、もしかしたら主人はあの時、事件の現場にお参りに行ったんじゃないかなあと思っています。今となっては主人は口が利けませんから分かりませんけど。そうだったらいいなって、思います。分かりませんけどね」 
「Sさんはご本人なりに後悔されていたと?」
「そうでもなきゃ、救われませんよ。本当」
 その時、S氏は再びズボンに手をかけていた。

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