さようなら弱者男性論

 「男女の友情は成立するか?」という問いそのものが邪悪であると感じる。成立するに決まっている。
 知り合いがTwitterの人との通話の様子を教えてくれた。フランス文学が好きな男性で、そこそこの大学へ行って、塾講師をしているらしい。住みが近いので「あそこリピート率高いらしいよ、一緒に行く?」と言われたので「どこ?」と言うと「ホテル」と言われたらしい。邪悪だと思った。

 英語でいうとsinだと思う。男女の奢り論争が一向に止まないのは、人間が邪悪だからだと思う。キリスト教の七つの大罪を今調べた。暴食の悪魔はベルゼブブ、色欲の悪魔はアスモデウスと言うらしい。奢り奢られ論争というのは男女の論争ではなく、ベルゼブブとアスモデウスの論争である。人間に憑りついている悪魔がいなくならない限り、一生続くだろう。

 悪って殺人や盗みだけではない。「神は細部に宿る」という言葉があるが、僕は「悪は細部に宿る」と思う。暴力は勿論悪だが、自己の欲望のためにおべんちゃらを喋るのも邪悪だ。

 悪って簡単に定義できる。「他人を奴隷化すること」。それ以外のことは何をやってもいいと思うけど、それだけはやっちゃいけないと思う。知り合いのセックス依存症の女が「みんなに呼び捨てにされる」と嘆いていたが、人格としてではなく、性奴隷として見られているからに違いない。
 
 レヴィナスの「顔」の概念がなんとなくわかった気がする。「顔」というのは奴隷化の否定だ。インターネットは顔が見えないから、相手の人格を無視できる。同じ顔の人間はいない。唯一無二の「顔」を持つという意味で、絶対的に尊重されなければならない。顔に刻まれた皺には歴史がある。
 だが、インターネットの外でも「顔」を無視する行為が横行しているらしい。

 芸術家の友人は、社会に出ると「狡猾」をしなくちゃいけなくなるから、当面は引きこもって絵を描くと言っていた。自分に嘘をつきたくなかったら引きこもるしかない気がする。
 仏教を代表する花は蓮だが、泥中の蓮と言われる。汚い泥の中に、白くてきれいな蓮が咲く。そういった人が理想だと思う。

 他人や自分の下心に、昔から異様に敏感だった。仏教をやる前からそうだ。煩悩や利己主義そのものが悪と捉えている現代人ってあまりいない気がする。僕って昔から根っから宗教的な人間だった。
 
 突然、弱者男性論は自分と一切関係がない、と直観した。お金と性に回収されないものが欲しい

 


勉強したいのでお願いします