ニヒリズムと時間と仏教

 日本で現在読める思想書はだいぶ読んだと思うけれど、虚無主義と真正面から取っ組み合ってるのは、中島義道、竹内整一、真木悠介ぐらいだった。中島義道は純西洋哲学的アプローチ、竹内は日本思想的アプローチ、真木は社会的アプローチだった。明治時代は西田幾多郎や久松真一が禅体験、思想によってニヒリズムを解決しようとしていたが、今はいないっぽい。

 中島義道は「未来は存在しない」ということを証明したいらしかった。ニヒリズムを問題にすると、やっぱり「時間」が一番重要になってくる。全ては滅ぶから虚しい。ギリシャ神話かなんかの「クロノス」っていう時間の神は、父親を食うみたいな話があるらしいが、綺麗だと思う。時間は父を食っていく。中島義道は十代の頃に読んだ時はなんか好かないなと思っていたけれど、最近再読して、本当は優しい人なんだなと思いなおした。ウィキペディアを見ると現在は入院してるみたいで心配だ…。同じく虚無主義に取り組んでいる芸術家の友達に中島義道の著書を勧めると「もっと早く読みたかった」と文字通り泣いて喜んでくれた。ただ、僕は哲学では救われないと思う。「感覚」が変わらなければ、虚しさは消えない。「未来はない」と理屈で証明できても、安心はできないと思う。

 竹内は、日本思想からアプローチしていた。日本には「どうせ」という意識が古代からあるらしく、どうせ死ぬなら楽しく生きようという、滅びを前提として、それを肯定していく姿勢があるらしい。有名どころでいうと「一期は夢よ ただ狂え」とかだろうか。芸術家の友人は、現在は引きこもって日本の勉強をしているらしいが、やっぱり滅びの美学的なものを追求したいらしい。「どうせ」というのは勿論、時間に関わる。「未来」を先取りした副詞である。

 真木悠介は(めちゃくちゃおこがましいが)僕と感性が似ていると思う。宮沢賢治の研究をしたり、インディアンのスピってる本を研究したり、OSHOを肯定的に評価したりしている。真木さんの本は全部好きだが、「時間の比較社会学」はニヒリズムに取り組んだ現代の本で、かなり説得力のある本だと思う。原始的な部族は「回帰的」だったり「反復的」な時間を生きているが、近代人は、ヘレニズムとキリスト教が変に合体して、直線的で無意味な時間を生きているということを書いている。過去があって現在があって未来に死がある、という僕たちが前提としている「近代的時間」という前提を「他の社会と比較する」という方法で相対化するのは上手い方法だと思った。けれど、僕たちはもう臓腑まで近代化されているので、今更時間意識を変えることができない。

 大峯顕という、この前亡くなった坊さん兼哲学者兼俳人の人がいるのだが、その人の本に「浄土はとっくの昔に完成している。あとは仏の呼び声を聞くだけ。もう安心ですね」みたいなことが書いてあって、結構感動した。浄土真宗は「過去」に「永遠」を求める宗教と言っていいと思う。十劫の昔に浄土が完成したので、あとは念仏するだけで死後に浄土へ行ける。「信仰」という意識状態が手に入るので、上記の人達みたいに理屈だけで解決するより救われると思うが、やはり嘘臭くて信仰は難しい。

 テーラワーダ仏教とか禅宗だと、修行をして「時間意識」を変える。

本当の無常を知るというのは、人生はこの一瞬しかないと理解する事だ。瞬間瞬間の現象に気づいていれば、心はあらゆる瞬間の体験と常に一致する。これが安定した平和的な心への最善の道だ。

ウ・テジャニヤ長老

 これは道元と同じことを言っていると思う。

生は一時のありようであり、死もまた一時のありようである。たとえば、冬と春とのごとくである。冬が春になるとも思わず、春が夏となるともいわないのである。

正法眼蔵

 日本仏教界隈で有名なプラユキというお坊さんに会いに行った時に「昔から死ぬのが怖いんです」と相談すると「"死"っていうのはイメージでしょ、今は死なんか存在しないじゃない」と言われた。その時はなんだか誤魔化されたような気分がしたが、「本当の本当に"今"しか存在しない」ということが腹の底から分かっていれば、「死」がなくなるのだと思う。だって本当に「今」に死は存在しないから。もし「死」がやってきても、その時はもう主体が消えているので「今」もなくなる。凡夫には理解しがたいが、主観の哲学を極めたフッサールが時間について「流れつつ立ちとどまる」と矛盾っぽいことしか言えなかったように、時間というものは非合理で矛盾しているので、体験からしか学べないんだと思う。

 「時間」がキーで、結局「永遠」を信仰するか、修行をして「今しかない」ということを腹落ちさせるしか「救われる」方法はないと思う。哲学とか社会学でゴタゴタやっても救われない。

 


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