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ヤバい本の内容紹介①

本能寺の変について、執筆中の本から幾つかご紹介をしましょう。

『信長公記』では明智光秀謀反の場面が詳細に記されています。1582年6月2日午前4時頃、外で騒ぐ声がしました。信長は喧嘩だと思ったのですが、「明智軍の旗が見えます」と家臣の報告に「是非も無し(仕方ない)」と答えています。

突入した敵と弓や槍で応戦しますが、鉄砲で肘を撃たれて奥の部屋へ行きます。この時に明智軍の安田国継と言う兵に槍で突かれて負傷します。安田は森蘭丸の十字槍で怪我を負いますが森蘭丸を討ち取ります。これが定説で語られている本能寺の変。

さて、皆さん。この話のどこが誤りなのか、解りますか?

①明智軍が本能寺に到着したのは午前6時頃。信長と信忠の遺体を2時間探した末に、諦めて午前8時頃に撤収した。
②明智軍は信長の遺体を発見出来なかった。
③明智軍は信長達と戦闘していない。

えーとですね、明智光秀が本能寺に到着する2時間前に、既に別の部隊が信長を襲撃しているのですよ。ワーワー騒いだのも、明智軍の旗を見せびらかしたのもワザと。更に信長の家臣でアフリカ人の弥助や女達は逃がしている。

つまり、実際に襲撃した部隊は明智軍を偽装した人達で、戦闘を生き残った人達が「明智軍の旗を見た!」と証言するのを計算しています。

んで、本当に安田国継が信長や森蘭丸と戦ったのなら、遺体を見失うなんて失態は起こりません。

この安田国継の話は、江戸時代になって森家の子孫がまとめた本に載っているエピソードで、残念ながら創作でしょう。そして一番最初に本能寺に入った明智軍の兵士(本庄惣右衛門)が「信長公とは戦ってません」と証言しているのですから、一体どうして「明智軍が信長を殺害した」になるのでしょう???

明智光秀は単に本能寺を取り囲んだだけです。それなのに450年も謀反人の濡れ衣を着せられ続けた、本当に気の毒な武将です。征夷大将軍になって明智政権を開けるって秀吉に唆されて楽しみにしていただけなのに……。

果たして明智軍が到着する前に信長を襲撃した人は誰なのかと言うと、ちゃんと羽柴秀吉が「杉原家次(秀吉の叔父さん)」だとわざわざ教えてくれています。次回はこの秀吉の天才らしからぬ大チョンボについて解説しましょう~。

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