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自分探しの結末は?自分や誰かの「ファンタジー」から抜け出すのが最短距離の見つけ方かも?

子供の頃、私は言葉を覚えるのが同学年の他の子に比べてだいぶ早かったらしい。幼稚園の年中クラスの頃には漢字を使ったり俳句を引用した使った手紙も書けたので、時々見知らぬ先生が授業を見学に来たり、園の中で呼び止められて話したりしていた。

学校に入っても相変わらず国語だけは得意で、よく質問する子だったらしい。そのせいで先生から気に入られたり、表彰されたり、学級委員とか生徒会活動を指名されたりするうち挑戦する事が面白くなって、自分からも色々立候補したりもして、学校行事にも実行委員などとして割と積極的に取り組んでいた。

生意気でぶりっ子な自分・褒められる自分

一方で顔も知らない上級生から「生意気」と呼び出されたり、同級生でも年頃的に目立ちたがり屋の子やそのグループの子からは、「ぶりっ子」と言われて靴を隠されたり、階段から突き落とされたり、靴の中に砂を入れられたり、殴られたり、背中に生理用ナプキンを貼られたり、「会話したら絶交」というお触れ書きが同じクラスの女子生徒内に回った結果、「会話できるのは男子か別のクラスの子限定」という謎の縛りがある期間が中学校三年間のうち一年半位あったりした。

そんな感じで、自分自身も小学校時代からそこそこ嫌な目にも遭っていた分、クラスで輪の中に入れない子の気持ちも分かるので、声を掛けてみたら意外と意気投合、という事も割とよくあった。

そうして大学を卒業しても、相変わらず顔も知らない違う部署の先輩から呼び出されて「生意気」と言われたり、転職する度に「鼻に付く」とパワハラに遭う事を繰り返した20代〜30代の会社員生活。

一方では「生意気」といわれ、一方では「憧れてます」とか「目標です」とか「宝塚の男役とかジブリ映画に出てくる女性みたいな人ですね」と、身に余る言葉をしばしば貰う。

普通に振舞っているつもりなのに、常に両極端な評価がつきまとう自分。過大評価される自分、ぶりっ子や生意気な自分、どれも誰かのファンタジーのような気もして、結局自分ってどういう人なんだろう?と割と最近まで自分のアイデンティティに悩み続けてきた気がする。

自分探しを辞めたら見つかった自分

だいぶ前に流行った「自分探し」。

でも「自分」に限らず探し物って、たいがい探している時は出て来なくて、諦めて別の事をしていると、ひょっこり出てきたりする。

実際「探し物は何ですか?見つけにくいものですか?」と歌う井上陽水も、出だしは協力的だったのに、結局最終的には「それより僕と踊りませんか」「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」「フフッフー♪」と、探すのをすっかり諦めている。

井上陽水に影響されたのかどうかは分からないけど、パワハラで会社を辞めてから、私は徐々に自分探しを辞めた。

気がつけば、ある日突然なんだか不意に吹っ切れて、「誰がどういうファンタジーを持っていても、私自身がどんな自己評価を持っていても、まっ、別にどうでも良いか!実際に言動したその軌跡が『自分』って事で。」と定義づけたら、随分スッキリした。

子供の頃、ファンタジーに応えようとして頑張っていた自分、大人になって「生意気」を返上しようともがいていた自分。今になって思うとどの自分もいじらしくて愛おしい。それら、頑張り、もがいていた自分も含めて「自分」。

自分や誰かが思い描く「自分像」にとらわれる事なく、のびのびと行動し、その軌跡を「自分」と定義する。それで十分だと今の私は思っている。

もし私以外にも誰かや自分のファンタジーに囚われて「完璧」や「ヒーロー」や「笑かすピエロ」や「憧れの誰か」「誰かから気に入られる私」を目指している人がいたとしたら、いつか自然にその荷をおろせる日がやって来ると良いな☺️と思う。

「誰かのファンタジー」という鉄下駄を脱いだら、自分が思っていた以上に高く高く跳べるかも?・・なーんてね😝

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