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ハピエン厨と言いつつ見るのはバドエンばっかりとか、あるくない?って話。

ハピエン厨、ハッピーエンドしか勝たん、

と高校生の頃自分に対して思っていた。また周りに対しても「自分はハピエン厨だ」と公言していた。しかし本棚に集まる本、なぜだかハッピーエンドでは無い物が増えていく。それどころか、なんだよその終わり方みたいなものが多い。例えば木原音瀬さんの『美しいこと』という物語、居てもたってもいられない情をくれる作品だと感じた。また、趣味程度の脚本を書いていた頃、どれもこれもバッドエンドが並んでいると評された。

私が読むものが同性愛だからこそ終わりを単に結ばれた、にしないならない傾向があるのかとも思いつつ、異性愛でも不倫であるとか、本命とサブのような扱いがあるとか、「もうどうしようもないじゃん、諦めろよ」と思わざるを得ないようなものも読む。世に出て反響を受けるものも一見するとハッピーエンド、実際見ると幸せか?と問うものが多いかもしれない。結果的に「これカップルで観に行くと別れるらしいよ」のように影響を及ぼすことも実際に耳にすることがある。

何が幸せなのか。
ハッピーエンドと言うからには幸せな終わり方のことを示すのだろう。ただここにもやはり人それぞれの幸せの置き方、幸福観のようなものが関わる。
ある知人は主人公当人だけでも幸せならばそれはハッピーエンドだ、と言い、一方である人は主人公以外の人、その空気感が幸せなものかどうかを重視していた。幸せを望むということはそもそもが誰かを対象にしたものか、全体に期待するものなのかといった観点も出てくる。それによっては誰かの幸せが自分の幸せにもなりうるだろう。また幸せという要素は心と呼ばれる存在がやはり核にあるようにも思える。身体が持つことが出来ている健康は幸せを確立するためのひとつの要素かもしれない。

とはいえ、飲酒するとドーパミンと呼ばれる所謂幸せホルモンの1種が分泌されやすくなるなど、自分を幸せだと感じさせることも容易いことなのかもしれない。その人の幸せを望むならばそれがどんな形なのか、知りたいと思うのもきっとエゴなのだろう。
フィクションの中だけでも幸せになってほしいと願いながら、フィクションが不幸であることが、幸せをくれるのかもしれない。

「ハピエン厨と言いつつ見るのはバドエンばっかりとか、あるくない?って話。」

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